<回想録8> ブルースにとりつかれて SIDE-A

「初公開!本人が綴る ジュークレコード・松本康ヒストリー8」
松本康の遺品の中から、自ら人生を振り返った手記が見つかった。
博多のロックの嚆矢・サンハウスの面々との出会いで音楽にのめり込んだことなど一部の経歴は知られていたが、幼少時からの詳細な記述はこれのみと思われる。博多の名物レコード店の主がどのように生まれたか、本人による「メイキング・オブ・松本康」の趣あり。数回に分けてお届けする。
第8回はぱわあはうすで行われた「ブルースにとりつかれて」について。のちの博多のロックに特徴的なブルースをベースにした音楽性、歴史観はここに始まったと言えよう。サンハウスの個々のメンバーの意外に多様な嗜好も垣間見れる。
※本文中の(●)内は松本が推敲の要ありとメモしていた部分

【ブルースにとりつかれて SIDE-A】
 とにかくサンハウスの連中の音楽に対する探求心は旺盛だった。
皆、全くといっていいほど重なる部分が少なく、ブルースが共通項でまとまっていたというのも嘘みたいだった。
奈良の前のベースの浜田卓はニール·ヤングやジャック·ブルース、それにジャズにも食指を動かしていたし、ドラムスの石岡賢一(後に浦田と改名)は、意外にもビートルズ·フリークでジョンもポールもジョージもリンゴも均等に愛せる稀な人だった。
リズム·ギター、ときにリード·ギターの篠山哲雄はフリートウッド·マックの脱ブルース志向にあった「ゼン·アレイ·オン」辺りまで聴いていて、私にフェアポート·コンヴェンションを教えてくれた恩人でもある。
鮎川誠は言わずと知れたローリング·ストーンズの体現者で、この頃ブルースに関しては、すでに確かな手ごたえをつかんでいた。
ボーカルの柴山俊之は、いわばトレンド·レシーヴァーで、結構直感的に、新しいものをつかんでいた。ジェスロ·タル、ルー·リード、ロキシー·ミュージックは、柴山俊之によってグループ内に入ってきた。こういうふうに5人5様の音楽的な志向性は、不思議にも「ブルース」というものをベースに一つに繋がっていた。

Fleetwood Mac - Then Play On (1969)
Fairport Convention - "Babbacombe" Lee (1971)
The Rolling Stones - Exile on Main St. (1972)
Jethro Tull - Stand Up (1969)
Lou Reed - Transformer (1972)
Roxy Music - Roxy Music (1972)
<ブルースにとりつかれて Vol.1> マディ・ウォーターズとチェス関係

 そして、1972年の冬のある日、田原が、鮎川、柴山に話しを持ちかけ、私がそばでそれを黙って聞くという、自然発生的なミーティングで、プロジェクト「ブルースにとりつかれて」が発足することになった。

 第1回は1972年12月。「マディ·ウォーターズとチェス関係」と題して、シカゴ·ブルースを特集した。だが、いきなりブルースの真髄から入ったのではなく、ロックからブルースへのアプローチを取り、例えば「ジェフ·ベックのあの曲のオリジナルは誰々」という感じのイモヅル式でやり始めた。それが一番自然で、良かった。この姿勢が、その後の基本方針となった。
 誰が言い出したか、たぶんマメな鮎川誠だと思うが、パンフレットを作ろうということになった。学習塾をしていてそのノウハウがあった私の謄写板が活躍することとなった。コピー機も今のように普及していなかったし、印刷屋に頼むほど部数も予算もないという状態だったから、謄写版は非常に手ごろな文明の利器だった。この日のチャージは100円。安上りに済ませるにはこれしかなかった。
 各自(●誰?)に原稿を割り当て、20ページほどの小冊子になった。第1回目に何人くらい来たか、どのように進行して行ったか、不思議なくらい記憶がない。後になると、かける曲目をあらかじめレコードからオープン·リールのテープ·デッキに移しておいて、プレイ·アンド·ポーズで、スムーズに曲を流したのだが、第1回は2つのターン·テーブルを交互に回して、1曲ずつ直接レコード盤からかけていた。
 DJというべきか、NHKのニュース解説というべきか、まじめなトークを挟みながら、ブルースを聴く夕べは始まった。結局第1回は欲張りすぎて、4時間近くになり、好きで始めた私たちですら、あくびがでた。

 2回目以降は徐々にやり方に工夫がなされ、3回目ぐらいから次第に独特の「乗り」を形作って行った。鮎川誠のダウンホームな語り口は、深い認識と実践に支えられ説得力充分だった。あの訥々とした博多弁と久留米弁の混ざった語りに皆聴き入っていた。誰よりも愉しんでいるのは私ではないかと思えるようになって来たのもこの頃だった。鮎川誠の一言一句が栄養となっていった。「本当にブルースは面白い!」と実感していた。

 毎回欠かさず聴きに来るばかりか、その前日の夕方から始まるパンフレットの編集、原紙切り、ガリ版刷り、本綴じなどの作業を一緒にやるスタッフも出来てきた。寡黙にも最後まで付き合っていた尾崎さん、後に活字のように綺麗に鉄筆で原紙に文字を記してくれた新郷啓子、「おさんどんは私よ」と申し出た「パンダ」こと赤松京子、霞のようにつかみどころがなかったが、いつも必ずいて、何かしら手伝っていた高校生のノンちゃんこと能登谷信子、等々。かけがえのないヴォランティアリズムに支えられていた。
 夜通しやって、当日の朝まで作業することもしばしばだった。あるときはそのまま10人くらいで、博多山笠の朝山(追い山)を見に行ったこともある。またあるときは、築港の飯場のような食堂に朝飯を食べに行ったこともある。もちろん、皆、自費参加。この私は翌日、というより当日の先発だから寝る間もない。本当は、刷りたてのパンフレットが嬉しくて、また、DJの予習で眠れなかった。
 ブルースに対する想いはまちまちだったけれど、かくして「ブルースにとりつかれて」はどうにか転げ出し、回を重ねて行った。ピークは10回目のシカゴ·ブルース特集の時で、この時は座る席もないぐらいの盛況だった。お客さんが50人ほどは集まっただろうか。東京の音楽雑誌も取材に来ていた。

 しかし、これ以降は内容が深まってますます充実する反面、スタッフの問でも分離現象が起こり始め、かなりのめりこんでいた私と余裕の鮎川誠の二人が中心にならざるを得なくなってきた。そして、聴く側もかなり受動的になって、痛し痒しの状態になっていった。私はこの頃、興味の度合いも急激に高まっており、もう完全に「ブルースにとりつかれていた」。
 ただ、このシリーズはやっている本人としては楽しかったが、実際問題としてレコードと資料の圧倒的な不足には頭を悩ませた。最初の2回はすんなりいったが、すでに3回目にしてはたと困った。デルタ·ブルースに取り組みたいが、戦前のブルースのレコードなんて持っている奴はいない。

Charley Patton – The Immortal Charlie Patton Vol. 1 (1964)
Charley Patton – The Immortal Charlie Patton Vol. 2 (1964)
Various Artists – Really! The Country Blues 1927-1933 (1962)
Various Artists – The Mississippi Blues 1927-1940
Various Artists – Country Blues Encores 1927-1935 (1965)

そんな時、救世主が現れた。奈良敏博だ。言うまでもなく、サンハウスの2代目(●後藤、浜田の後で3代目では?)ベーシストとして、20歳そこそこと若いながらもコクのあるベースを弾いていた彼だったが、実は隠れブルース·コレクターだったのだ
それらしきことを察知していた鮎川誠が、ある日、
「チャーリー·パットンのレコード持っとろう」と探りを入れると、渋々
「うん」と言う。
「何持っとうとね?ヤズーのね」と聞くと、
「違う」と答える。
「それじゃあオリジン?」。
「…」。
「オリジン持っとうとね」と私も驚く。
戦前のブルースのリイシューといえば、ヤズー盤かオリジン盤だったが、元祖的なオリジン盤は本で見ただけで、実物など見たことはない。それを持っていると言う。オリジンのチャーリー·パットン!しかも「VOL.1」と「VOL.2」の2枚とも。この時の驚きと嬉しさは格別だった。たたみかけるように鮎川誠が尋ねた。
「まだ他に持っとろう」。するとまた渋々と
「うん」。
「今度持って来んしゃい」。
「うん」。どうにか糸口がつかめた感じだった。

 そして後日、本当に倒れそうになった。「リアリー·ザ·カントリー·ブルース」 「ザ·ミシシッピ·ブルース No.1/2/3」「カントリー・ブルース・アンコール」のオリジン盤、他にもブルース・クラシックス盤などがぞろりぞろぞろ。本当にいつ集めたの、どこで買ったの!?彼はサンハウスに入る前、やはり中洲のハコバンドにいて、そのとき稼いだお金で、大阪のサカネ楽器などからこれらのレコードを手に入れていたという。ちなみにサンハウスに入ると、とたんに貧乏になった。

 私やぱわあはうすの常連たちも、日本で唯一と言っていいくらいのブルースを置いている店、サカネ楽器のことは知っていた。大阪に行く人がいたら、頼みこんでレコードを買ってきてもらっていた。マジック·サムの「ウエスト·サイド·ソウル」、デューク盤のジュニアー·パーカーの「ベスト」はそれぞれ3000円前後で手に入れたものだった。ぱわあはうすの時給が200円そこそこだったので、このレコードの価値がいかなるものか、お分かりになることだろう。
 「奈良コレクション」のおかげで、「ブルースにとりつかれて」もあと3、4回はやれそうだという気になった。このレコード·コンサートも一寸先は闇、暗中模索でやっていたために、とにかく毎回毎回「やれるだけのことをやろう」としか考えていなかった。だから、20回も続くなんて、誰も思っていなかったに違いない。