<回想録6> 大学を中退する サンハウスとの出会い

「初公開!本人が綴る ジュークレコード・松本康ヒストリー6」
松本康の遺品の中から、自ら人生を振り返った手記が見つかった。
博多のロックの嚆矢・サンハウスの面々との出会いで音楽にのめり込んだことなど一部の経歴は知られていたが、幼少時からの詳細な記述はこれのみと思われる。博多の名物レコード店の主がどのように生まれたか、本人による「メイキング・オブ・松本康」の趣あり。数回に分けてお届けする。数回に分けてお届けする。第6回は大学中退とサンハウスとの邂逅。自宅で開いていた塾である程度収入もあり20歳前後とは思えない生活力があったことが一見無謀に見える行動を支えていた。そして人生の師とも言える鮎川誠に出会う。
※本文中の(●)内は松本が推敲の要ありとメモしていた部分

【大学を中退する】
 大学では学生運動をちょっとだけかじった。だが70年安保闘争が終結し、学生運動が収まったとたん、みんな当たり前のように教室に戻って行った。「ちょっとそれは違うだろう」と感じた。何でも問題にして、主張していたのに。
平穏無事になったときに「オレ、なんかここに居場所ないね」と思った。そんな大学生活に馴染めないでいた私にとって、ロックは単なる鑑賞する音楽以上のものになりかけていた。それが何だか分からないまま、ただ漠然とロックにのめりこんで行きたい気分だった。

カウンター·カルチャーとしてのロックというものに気持ちが傾いていたのかもしれない。だから、学校を中退してぱわあはうすのメンバーになろうという決心は意外と簡単だった。結局、大学は2年まで通い、3年の前期の授業料を払った後に行かなくなった。
親や周囲からみると訳の分からないもののために、せっかく入った大学という学歴を無にしてしまうのは、「どうして」という以外なかったと思う。
母からは「どれだけ苦労して育てたね」と言われた。それでも一方で塾はやっていたから、私のことを認めてくれていたが。私も明確な方向性があった訳でもなく、欺瞞的な学校生活を送るよりは充実感があると思っての行動だった。

 かくして、ぱわあはうすの一員となったのだが、正直言ってここの天井まで達するスピーカーから迫ってくる大音響のロックに長時間つかりっきりというのは、疲れた。しかもレコード·コレクションと言うには、ロック喫茶としては皆無に等しかった。
田原は、なぜかレコードはあまり持っていなかった。最初は私が持ち込んだ分も合わせて200枚前後だったと思う。その後、一応店として成り立ち始めてからはレコードの枚数も増え、その一角を占める私のコレクションも増殖しつづけたが、やはり絶対量には乏しかった。ジャズ喫茶、例えば中洲のKELLYや天神の「COMBO」などのコレクションに較べたら、まさに大人と子供だった。
 したがって、一日中レコードをかけているとほぼ同じメニューになるのは避けられない。来る日も来る日も同じようなロックの音ばかりだった。それはそれでとても満たされてはいたが、私には「ブルース」という言葉が頭から離れなかった。

ぱわぁはうす店内

【サンハウスとの出会い】
 そのころサンハウスと出会った。
 サンハウスは、すでに博多の街の「噂の」バンドになりかけていた。しかし、中洲の「赤と黒」や川端の「ヤング·キラー」というダンスホールの「ハコ」バンドだったため、私を含め一般のロック好きの人間からみると、似て非なるものという先入観を抱かせていた。
一方、サンハウス側も「ハコ」には飽き足らずに、外に出ようとしていた。その決定的なステップになったのが、六本松(福岡市中央区)にある九州大学教養部学生会館でのフリー·コンサート出演だったと言われている。
残念ながら、常に出遅れ青年である私はその場に居合わせておらず、人から伝え聞いたのだが、演奏そのものもだが存在感が圧倒的だったらしい。
この頃のサンハウスのレパートリーは、ほとんどが有名なブルース·ナンバーを自己流にアレンジしたものだったが、その解釈と表現力は日本では随一だったと思う。コピーに始まり、コピーの域を出る。いつの世でも、このことが難しい。

牛乳を飲む鮎川誠

 サンハウスのメンバーで最初に知り合ったのはギターの鮎川誠だった。ある日突然、鮎川誠がぱわあはうすに入って来た。
私は「サンハウスのあの人が来た」と驚いた。後で分かったことだが、鮎川誠はそういう面白そうなところに積極的に行く、物事に対して積極的な人なのだった。
席に着いたところで、「何にしますか」と注文を取りにいくと、彼は驚愕の一言を口にした。メニューにはコーヒーやコーラ、ビールなどがあったのだが、最初の言葉で私はぶっとんだ。「牛乳」!


「牛乳ちょうだい」と言われ、虚を突かれた私は「はぁ?」ともらした。それから頭を巡らせ「ミルクですか?」と聞きなおした。メニューには「ミルク」があった。氷を入れて、牛乳を入れる。そう確認したら、「いや牛乳」と答えてきた。
「氷を入れんでそのまんま、牛乳持ってきて」。そのまま持っていった。
これは常人ではないと注意深く観察していたら、彼はカバンをにわかに開けだし、中からコッペパンを取り出して牛乳と一緒に食べ始めた。「持ち込みしたらいかんでしょ」と言わなければならないが、圧倒されてそれどころではなかった。だが、彼のそういう周りを気にしない、わが道を行くところがまさしくロックンローラーなのだろう。そのとき彼は、ジョン・レノンがかけていたような丸い眼鏡をかけていた。ジョン・レノンがソロになり、「ラブ・アンド・ピース」をアピールして、時代の寵児のようになっていた頃の眼鏡だ。そんなルックスにも驚かされたが、そのルックスで「牛乳」、というギャップに、私はぶっとばされた。それが最初の出会いだった。

 その後、鮎川誠に続き、ほかのサンハウスのメンバーたちもぱわあはうすに訪れるようになった。
当時、サンハウスは西鉄グランドホテルの裏にあった「サンタナ」という広いフロアの店(●何屋さん?)で練習させてもらっていた。そこでの練習が終わって、みんなよくコーヒーを飲みに来てくれていた。
ベースの奈良敏博は中洲でスマートボールやアレンジボールなどをして、そのあとで遊びに来ていた。何回か来てくれているうちに、彼らは田原と意気投合した。
ちょうどダンスホール衰退期が訪れ、「ヤング·キラー」が閉店してしまった頃だった。やる場所が無くなり、「ハコ」で踊らせるためだけのロックにも嫌気がさして、メンバーの志向性が変わってきていた。

サンハウス at COMBO

 ぱわあはうすも基本的にはロック喫茶だったが、「ライヴもやってみようか」という話が出ていた。魚心あれば水心とでもいうべきか、両者は急速に接近し、ぱわあはうすでサンハウスのライブをやることになった。
 「じゃあウチでライブやってくれるなら、練習するところもなかろうけん、場所使ったらいいやん」と田原が快く申し出た。それから彼らは週に3、4日、朝の9時に集合し、営業開始の昼の12時まで練習するようになった。
 最初の頃は私が鍵を持っていて、店を開ける係だった。だが、ある日、寝坊してしまった。「ああ、いかん」と焦って行って9時の約束のところ10時に着いたら、みんなが腕組みして不快感をあらわにしていた。不覚を取るというのはまさしくこのことだ。
それから私は信用されなくなり、メンバーが「コウちゃん、どうもいかんごたあね。鍵、俺たちが借りとってよかかいな」と、自分たちで開けて練習するようになった。私は、練習の終わりがけにちょっと見に来るような感じだった。

ぱわぁうあうす前でのサンハウス

 練習では1曲終わったらみんな黙り込んでいたのが印象的だった。何か意見を言うわけでもなく、思いつめたような顔をしていた。最終的にボーカルの柴山俊之が「もう1回いこう」と言い、同じ曲をガーン、と頭からやる。私から見たらどう変わったか分からない。少し良くなったかなとは思うが、本人たちはまた「いやちょっと違う」とやり直す。それを延々繰り返していた。そのことはいまだに鮮明に憶えている。