松本康 年表
2月8日、福岡市東区馬出に生まれる。
福岡県立福岡高校に入学。
大学浪人中、胃潰瘍で入院していた山田病院で九州大学に米軍の戦闘機ファントムが墜落する音を聞く。
ぱわぁはうすを練習場所にしていたバンド「サンハウス」の鮎川誠や柴山俊之らとイベント「ブルースにとりつかれて」の運営メンバーとなる。
貴重なレコードの音源をかけながらの解説や時にはサンハウスのライブ演奏も交えた会は74年まで19回を数える長期シリーズに。
この体験が松本を音楽の大海に誘うこととなった。
グラムロックに傾倒する店主・田原とザ・バンドなどアーシーな音楽にのめり込む松本で方向性に違いが生じ、年末に退店。
塾経営は順調だったが音楽に関わる仕事をしたいという思いは募る。
そんな折、友人・森公英氏の経営する喫茶店「風街」のビル2階に空きがあると聞いてレコード店開業を思い立つ。
必要な資金500万に対し手元にあったのはわずか5万。
松本曰く「120%の自信と99%の借金」での船出。
80's FACTORYで「HISTORY OF SONHOUSE」開催。
若手バンドが影響を公言することも増えたがアルバムは廃盤で半ば伝説化していたサンハウスの概要を伝えるもので、三日間昼と夜の部で計6回、700人ほどを集客。
レコードコンサート「A SHOT OF RHYTHM & BLUES」開始。
ジュークレコード香椎店を開店するも短命に終わる。
ライブイベント「ロックンロールサーカス」開始。
会場は映画館だった富士映劇。主要参加バンドだったアクシデンツ、アンジー、モダンドールズなどのメンバーが作戦会議を行う場所としてジュークレコードを提供。
11月 ジュークレコード上に有住寿一氏の経営するレコーディングスタジオ移転。
「19(ワンナイン)レコーディングスタジオ」として稼働を始める。
アンジーのアルバム「嘆きのばんび」をプロデュース。
制作費を捻出するため自身のレコードコレクションから2000枚を放出。
メンバーの水戸華之介、中谷ブースカはジュークレコードのスタッフとしても松本と密な交流があり、中谷は松本の晩年までを伴走することとなる。
11月、ビルの解体に伴い天神3-6-7に移転。売り場面積を2倍に広げた。
サンハウスのマネージメント、権利関係を集約して管理する「SONRISE2000」を立ち上げ。
「KEEP ON JOOKIN’」(深町健二郎氏とのラジオ番組「KEEP ON JUKIN’」のイベント版)開始
7月、天神応順ビル(昭和通り沿い)から天神ミツヤマビル(親不孝通り方面)へ移転。
9月28日 肝細胞がんのため死去。
松本の療養中、ジュークレコードはかつての店員や有志が交代で運営していたがこれに伴い閉店することに。
10月30日、ジュークレコードは45年の歴史に幕を閉じた。