松本康 年表

1950年

2月8日、福岡市東区馬出に生まれる。

1965年

福岡県立福岡高校に入学。

1968年

大学浪人中、胃潰瘍で入院していた山田病院で九州大学に米軍の戦闘機ファントムが墜落する音を聞く。

1969年

一浪後、西南学院大学英語専攻科に入学。70年安保を前にデモや討論会に参加しつつ雀荘でアルバイトの日々。

従兄弟の勉強を見てやるうちに近所の子どもたちも教えることになり後の学習塾運営につながっていく。

アルバイト代でレコードを買うのが楽しみで4~5曲入りのコンパクト盤に親しむ。クリームにショックを受けその向こうにブルースがあることを知る。

松本康 年表
松本康 (20代)
1971年
松本康 年表
ぱわぁはうす店内

西南大の俳句部で知り合った先輩・田原裕介がオープンした福岡のロック喫茶の先駆け「ぱわぁはうす」でウェイターのアルバイトを始める。
ますますロックにのめり込み、大学は3年前期の授業料を払った後行かなくなり中退。
ぱわぁはうすに来店した鮎川誠と邂逅。

1972年

ぱわぁはうすを練習場所にしていたバンド「サンハウス」の鮎川誠や柴山俊之らとイベント「ブルースにとりつかれて」の運営メンバーとなる。
貴重なレコードの音源をかけながらの解説や時にはサンハウスのライブ演奏も交えた会は74年まで19回を数える長期シリーズに。
この体験が松本を音楽の大海に誘うこととなった。

1973年

グラムロックに傾倒する店主・田原とザ・バンドなどアーシーな音楽にのめり込む松本で方向性に違いが生じ、年末に退店。

1974年

家庭教師や塾経営などで生計を立てつつ、浴びるようにレコードを聴く。
仲間内でオーダーをとってレコードの個人輸入も始めた。

松本康 年表
松本康 (20代)
1976年

塾経営は順調だったが音楽に関わる仕事をしたいという思いは募る。
そんな折、友人・森公英氏の経営する喫茶店「風街」のビル2階に空きがあると聞いてレコード店開業を思い立つ。
必要な資金500万に対し手元にあったのはわずか5万。
松本曰く「120%の自信と99%の借金」での船出。

1977年
松本康 年表
ジュークレコード店内、カウンター(奥に松本康)

5月25日ジュークレコード、福岡市中央区天神3-3-8にオープン。
赤いソファとコカ・コーラのアイスボックスが置かれていた。
開店にあたって松本が泣く泣く店に出した自分のコレクションは3枚。
当初は品数も少なく売り上げも上がらなかったが時代はパンク全盛期。
盟友・鮎川誠が推薦するエルヴィス・コステロやダムドなどを仕入れると反応も良く経営も徐々に軌道に乗る。
松本曰く「日本で2番目にスティッフレーベルが入荷する店」に。

1978年

サンハウス解散、鮎川誠は妻をボーカリストにシーナ&ロケッツを結成。
11月、シングル「涙のハイウェイ」でデビュー。
ジュークレコードで全面バックアップ。

シーナ&ロケッツ、デビュー当時の
ジュークレコードオリジナルチラシ
1979年

ロックバンドには貸さないという会場が増える中、地元バンドを応援しようとライブイベント「ロッククラッシュ」を立ち上げる。
主な会場は九州大学六本松学館。計4回開催。

ロッククラッシュ 第1回チケット (1979.3.24)

若手の演奏する場所を開拓したいという思いだったが80年の「80’s FACTORY」開店でその勢いは爆発、ロッカーズ、ルースターズ、モッズが次々とデビューし「めんたいロック」と呼ばれることになる。

1981年

80's FACTORYで「HISTORY OF SONHOUSE」開催。
若手バンドが影響を公言することも増えたがアルバムは廃盤で半ば伝説化していたサンハウスの概要を伝えるもので、三日間昼と夜の部で計6回、700人ほどを集客。

1982年

3月31日、80's FACTORY閉店。
レコードコンサート「B .G .M(Beatin' Groovin' Movin')」開始。

ジュークレコード(天神3-3-8時代)
1983年

レコードコンサート「A SHOT OF RHYTHM & BLUES」開始。
ジュークレコード香椎店を開店するも短命に終わる。

ライブイベント「ロックンロールサーカス」開始。
会場は映画館だった富士映劇。主要参加バンドだったアクシデンツ、アンジー、モダンドールズなどのメンバーが作戦会議を行う場所としてジュークレコードを提供。

11月 ジュークレコード上に有住寿一氏の経営するレコーディングスタジオ移転。
「19(ワンナイン)レコーディングスタジオ」として稼働を始める。

1984年

FM福岡でラジオ番組「LET IT BEAT」DJを担当。土曜深夜の番組「ライブエクスプロージョン」の1コーナーだった。
番組と連動した冊子を制作するスタッフを募集したり、当時入手難だったアーティストの編集カセットを配布したりしてコアファンを獲得。

アクシデンツ/Nite Time (1984年リリース)

原島宏和、穴井仁吉ら在籍のバンド、アクシデンツの自主制作レコード「Nite Time」をプロデュース。レコード品番はKINKY-1。

1986年

アンジーのアルバム「嘆きのばんび」をプロデュース。
制作費を捻出するため自身のレコードコレクションから2000枚を放出。
メンバーの水戸華之介、中谷ブースカはジュークレコードのスタッフとしても松本と密な交流があり、中谷は松本の晩年までを伴走することとなる。

1992年

松本、中谷など参加のグループでアメリカ旅行。
シカゴブルースフェスティバル~ニューオリンズ~メンフィスと観光とアメリカ音楽ルーツ探求を兼ねる。
クラークスデイルで鮎川氏とも合流。その後90年代半ばからロンドン/フランスやロスアンジェルスへ数回レコード買付の旅に。

松本康 年表
SUN STUDIO cafe (Memphis)前にて
1996年

11月、ビルの解体に伴い天神3-6-7に移転。売り場面積を2倍に広げた。

1998年

サンハウスのマネージメント、権利関係を集約して管理する「SONRISE2000」を立ち上げ。

2002年

「KEEP ON JOOKIN’」(深町健二郎氏とのラジオ番組「KEEP ON JUKIN’」のイベント版)開始

2006年

7月、天神応順ビル(昭和通り沿い)から天神ミツヤマビル(親不孝通り方面)へ移転。

2015年

2月14日シーナ死去。
ジュークジョイントで追悼の会を開催。

ジュークジョイントで開催していた「ジューク音楽塾」に鮎川を招いて講座形式での会「鮎川誠ロック塾」開始。
以降2019年までに15回を数える。

松本康 年表
「鮎川誠ロック塾」での鮎川誠と松本康
2022年

9月28日 肝細胞がんのため死去。

松本の療養中、ジュークレコードはかつての店員や有志が交代で運営していたがこれに伴い閉店することに。
10月30日、ジュークレコードは45年の歴史に幕を閉じた。