<回想録9> ヤマハ 鮎川塾
「初公開!本人が綴る ジュークレコード・松本康ヒストリー9」
松本康の遺品の中から、自ら人生を振り返った手記が見つかった。
博多のロックの嚆矢・サンハウスの面々との出会いで音楽にのめり込んだことなど一部の経歴は知られていたが、幼少時からの詳細な記述はこれのみと思われる。博多の名物レコード店の主がどのように生まれたか、本人による「メイキング・オブ・松本康」の趣あり。数回に分けてお届けする。
第9回は福岡で輸入盤を扱っていたヤマハと、鮎川がシーナと住んでいたアパートに日参した記憶。
※本文中の(●)内は松本が推敲の要ありとメモしていた部分
【ヤマハ】
奈良コレクションの源となった大阪のサカネ楽器は大きな存在だった。一方、福岡でブルースのレコードを買うとなると、福ビル1階の日本楽器、いわゆる「ヤマハ」しかなかった。それも河口で鯛を釣るようなものだった。そこでは鮎川誠か私が、ブルース·レコードを最初にあらためる関所の役人だった。
ヤマハではブルースのほか、ロックやポップスの輸入盤も扱っていた。カウンターのやもり(アメリカではラウンジ·リザードというらしい)となった柴山俊之が、「これかけていい?」と言っては次々にかけていた。
柴山は今ほど派手ではなかったが、威圧感があった。「あれ入ったね!?」とけたたましく入って来るのが浦田賢一だった。ヤマハはみんなのたまり場で、柴山、浦田、鮎川は博多の新譜早聴の3人衆だった。輸入盤は早く聴かなけらばならないという思いがあった。みんな、今流行っている音を必要としていた。

「200CD ロックンロール」という鮎川誠が多くの記事を書いた、ロックのCDを紹介する素晴らしい内容の本があるが、そこに「柴山は博多で最初に輸入盤の封を切る人」とある。実際、柴山はレコードをよく買っていた。ぱわあはうすで店用にまとめて買うとき、一緒に買っていた(●少し安くなる?)。
カウンターの棚には「サンハウス」と書いた紙が貼られたレコードが置いてあり、これは取り置きだったのだが、バーゲンまで引き伸ばして買っていた。また、アルバムの中の好きではない曲のところにキズを入れ「これ傷がついとうぜ、安くしやい」とクレームをつけて安く買うこともあった。キズのことは店の人も知っていたと思う。顧問料みたいなものだったのだろう。柴山はいいレコードは、「おまえ、あれ聴け」と周りの人に薦めてくれていたのだ。
【鮎川塾】
ヤマハで入手したブルースのレコードで、最も記憶に鮮明なのが、スペシャルティー盤のクリフトン·シェニエーの「バイユー·ブルース」と、ギター·スリムの「THE THINGS THAT I USED TO DO」だった。この2人に関してはほとんど何も分からない時で、とにかく直感だけを頼りに、封を切ることにした。
抜け駆け(●誰に対して?)でこの2枚を手にした私は、すぐに鮎川家に持って行った。この2枚はいける、という予感で、心が弾んでいた。鮎川家通いはその頃日課になっていた。


当時、鮎川誠とシーナは、ぱわあはうすのすぐ近く、古門戸町(こもんどちょう、福岡市博多区)の大西アパートに一緒に棲んでいた。人も羨むナイス·カップルだった。
私は、図図しくも、ぱわあはうすからの帰りにコーヒー豆を持って必ずそこに寄っていた。2人はコーヒーが大好きだった。1人1日10杯ずつ飲む。最初、「コーヒー飲んでいかんね」と誘ってくれたのが彼らにとっての運のツキだった。
「ぱわあはうす」を5時に終わり、6時から自分の学習塾が始まるから、その1時間が私のゴールデンタイムで、「鮎川塾に通う」と称して日参していた。私が自分の塾をやる前に、鮎川塾に勉強に行くという感覚だった。ほぼ毎日、1年近く通った。全くいい迷慾だっただろう。
鮎川塾ではまず、ブルースを習った。通いだしたのはまだ「ブルースにとりつかれて」を始める前のことで、私が当時一番興味を持っていたのは、やはりブルースだった。
ロックはひと通り聞いていたが、ブルースというのがどうもよくつかめなかった。前にも述べたが、クリームにしてもジョン·メイオールにしてもレッド·ツェペリンにしてもみんなブルースがベースにあると言われていたものの、よく分からなかったのだ。師匠にはその辺りから教えてもらった。
「クリームのアイム·ソー·グラッドは、元は誰の曲やろうか?」
「あれはスキップ·ジェームスやね」
「どんな人ね?」
「戦前のブルースマンでっさい…」
「聞かせてもらってよか?」
という授業風景だった。
私が授業を受け、本も一生懸命に読み「ブルースとは何ぞや」とやっていたとき、サンハウスは既にそれを自分のものとして体得し、演奏していた。鮎川誠は昔のブルースを自らのセンスで解釈して「なまずの歌」を作り、柴山も「スクイズ·ア·レモン」という古いブルースを解釈し「レモンティー」というロックンロールに生まれ変わらせていた。私も当時としてはかなり音楽を聴いていたほうだったが、彼らを見ると格差を痛感させられた。例えれば、私は高校野球、鮎川誠たちは大リーガー、それくらいレベルが違っていた。


レコードのことに戻ろう。ブルースのレコードは輸入盤に頼らざるを得なかったが、私はロックやポップスの場合、いろいろ情報を知りたくて日本語の解説(ライナー)のある国内盤を好んで買っていた。輸入盤しかないと思われていたのを国内盤で見つけたときは嬉しくて、やはり鮎川家に持って行き一緒に聴いていた。チャック·ベリーの(●タイトルは?)なんかがそうだ。だが、鮎川誠が替えたことのない安い針で、しかもアームに5円玉を乗せ7グラムぐらいの針圧で聴くものだから溝が削れてしまい、その部分が白くなっていくこともあった。私は「師匠やけんしょうがない」と心の中で泣いていた。
師匠はレコードを(●ジャケットに入れず?)、そのまま(●どこに?)置くこともあった。だけど、こういう使い方をしないと音楽は身につかないんだなと思った。私や普通の音楽好きにとってレコードは財産であるが、鮎川誠にとっては道具のようなものなのだ。使ってなんぼのもの。本なども同じで、読んだその場で書き込みをしてしまう。きれいに扱ったからといって身につくかは別なのである。本人が意識していたかどうかは分からないが。
鮎川塾で私は音楽の何たるかを教えてもらった。個別のこともいろいろ教えてもらったが、それとは別に実に本質的なものを習った。音楽は眺めているものでも、集めるものでない。その中に入っていくものだということ。例えば、誰かがある音楽をいいと評価しても、それは誰かが言っているだけで、自分にとってはまだ身に付いていない。自分のフィルターを通して音楽をちゃんととらえなさい、つまり「音楽は自分で探れ」ということだ。それが私の血となり肉となった。おかげで、ブルースだけではなく、程度の浅い深いは別として、いろんな音楽に対応できる自分が出来たという思いがある。
