<回想録18> アンジーをプロデュース
「初公開!本人が綴る ジュークレコード・松本康ヒストリー18」
松本康の遺品の中から、自ら人生を振り返った手記が見つかった。
博多のロックの嚆矢・サンハウスの面々との出会いで音楽にのめり込んだことなど一部の経歴は知られていたが、幼少時からの詳細な記述はこれのみと思われる。博多の名物レコード店の主がどのように生まれたか、本人による「メイキング・オブ・松本康」の趣あり。数回に分けてお届けする。
第18回は、アンジーのアルバムをプロデュースしたお話。本人もことさら愛着のある作品となった。当時配布された特典カセットには松本が歌ったデモバージョンも収録されている。
※本文中の(●)内は松本が推敲の要ありとメモしていた部分
【アンジーをプロデュース】
そんなアクシデンツに関わるモヤモヤを、一気に晴らしたのがアンジーのレコード製作だった。
1985年の夏に、アンジーがレコードを出したいと言ってきた。その頃、アンジーはカセットブックを出すなどして、音源のリリースに積極的だった。
ボーカルだった水戸華之介(当時は三戸)は、今も自分の曲の特別バージョンを作ってリリースしている(●要確認)。そういうところは変わっていない。
それで、アンジーの楽曲を聞いたら演奏は下手だったが、確かに面白かった。私はやる気になった。カセットブックは「木偶の坊」「罪と罰」「ガセネタ」と3本出していて、それぞれ6曲から8曲収められていた。その中からふるいにかけて、未発表曲も選んで12曲、これで行こうと決めた。フルアルバムだ。

アクシデンツのときはいろいろな意味で不満が残った。デザインなども気に入ってはいなかった。
みんな焦っていて、見切り発車したところもあった。初めてのレコーディングだったからノウハウが分からず、時間がかかった。手探り状態だった。
アンジーの時は大分慣れてきていた。慣れてきていたからこそ、妥協は許さなかった。悔いは残したくない。今回は納得いくまでやろうと思ったし、実際やった。
水戸は歌い過ぎるところがあって、どの曲も同じように力を入れて歌っていたから「この曲は力抜いて歌ったほうが伝わる」などとアドバイスをした。
ギターの嶋尾ジョージがフレーズを上手く弾けないときは、何度も出来るまで弾きなおさせた。泣きそうになっても許さなかった。(●もっと詳しく)10月から12月まで、300時間レコーディングに時間をかけた。そうしてアンジーのアルバム「嘆きのばんび」は完成した。
1986年2月1日、ジューク・レコードレーベルからリリース。その直後、彼らはレコード発売記念ツアーを敢行した。神戸、大阪、京都、名古屋、横浜、新宿と各地のライブハウスを回り、最後に天神のビブレホールで締めた。やる気のあるバンドだった。中谷はその頃ジューク・レコードでアルバイトをしていて身内のようなものだったが、公私混同でプロデュースを買って出たわけではない。いいバンドだったからやったのだ。
その後もアンジーは九州をはじめ、関東、中部、関西、中国各地で精力的にライブを行った。水戸は後に著書で「『嘆きのばんび』はライブのたびによく売れるし、東京とか関東地方の動員が飛躍的に増えた。レコード出したあとでね。やっぱ塩ビ出すと露骨に違うんだなあ…というのがわかったね」と語っている。。

その後、「嘆きのばんび」の評判を聞きつけたレコード会社から声がかかり、アンジーは東京へ進出することが決まった。インディーズ・バンドとしての博多での最後のライブは1986年10月25日、天神の都久志会館。750人ものお客さんが集まった。中に入れなかったファンも多数いた。
今でも、あのライブはすごかったと言われることがある。私もスタッフとして参加した(●正確?)。送り出す、という気持ちだった。水戸は派手なライブパフォーマンスもいいが、ホロっとすることも言う。(●ステージから、私たちに支えてきた者たちに、)感謝の言葉も言ってくれた。
「嘆きのばんび」は東京のVIVID SOUNDに配給してもらった(●最初から?)。今では配給レーベルはいろいろあるが、当時はVIVIDが最もしっかりしているレーベルの一つだった。最初は福岡でレコード盤をプレスしたのだが、VIVIDが「嘆きのばんび」を気にいってくれて、お金を出すからプレスさせてほしいと申し出を受けた。最初、福岡で300枚プレスした。緑色のジャケットにした。その後500枚ぐらいを、VIVID(●でプレスしてもらい)を通じて全国で売ってもらった。これはジャケットを赤にした。茶目っ気でコレクター意識を煽ったのだ。緑盤ではレコード番号を「XYN-001」にした(●意図が不明)。罪と罰の罪、それは水戸のテーマだった(●意味不明)。レコード会社だったら、そういう「遊び」はできない。そんなことをしながらインディーズを楽しんだ。

レコード製作はものすごい情熱と実行力を要した。アクシデンツで300万円分、そしてアンジーでも300万円分、自分のレコードを売って資金を作った。枚数にして約2000枚。最初の1000枚を選ぶのは比較的楽だったが、その後の1000枚はつらかった。開店時にも自分のは3枚しか出さなかった男だ。選びに選んだ。キンクスだけは手放さなかった。
そういうことがあってもアンジーはまあ売れたから、お金もそこそこ戻ってきて、レコードもある程度取り戻すことはできた。(●全部で何枚売れたか。アクシデンツは1000枚)。
「嘆きのばんび」自体はVIVIDで再発もされて、メジャーでもリリースされた。トータルで1万5000枚ぐらい売れたのではないだろうか。メジャーで出された分は、使えない言葉があったらしく、歌詞の一部分に聞こえない処理を施されていた。やはり、オリジナルがいい。
まさしく地方で、グレードの高い仕事をやることができた。今では当たり前のようにもなっているが、その頃はなかったことだ。その後、二番煎じをする人も多かったし、聴く側を騙す(●例えばどんなふうに?)ようなやつもいた。

私のやろうとしたことには信念があった。人から後ろ指を差されたくはなかった。だが、そうは言っても、何かを作る仕事をやっているわけではない。
人が作ったものを売るのだから、どこか後ろめたさがある。あるけれど、それでも、お客さんが納得することをしようと思った。だから、つまらないやり方をする人に同業にいてほしくない。鮎川誠から習ったことだ―ピュアな気持ちでいること。それを損なうことを、ロックが好きな人間にしてほしくはない。

アンジーは博多を離れることになったが、私としては「送りだす」という気持ちだった。一緒に東京に行って何かをしたいとは考えなかった。
もともと名刺がわりになるようなものを地元で作ってあげたいと思って関わったのだ。もちろん、プロになれるバンドを育てるつもりでやっていた。ローカルだが、全国レベルで通用するようなものを作りたかったのだ。
アンジーのプロデュースを終えて、道が見えた。福岡でレコーディングやプロデュースができるということが見えた。だが、その一方で、これ以上のものは作れないとも思った。実際、その後が続かなかった。燃え尽きたというのもあるが、その労力に見合うだけのバンドに出会わなかったというのも大きな要因だった。
確かに、ヒートウエイヴといういいバンドはいた。ルー・リードやボブ・ディラン、ヴァン・モリソンなどが好きで、その影響は自らの楽曲にも現れている。「歌」の部分を非常に大事にしている。メンバーたちはパブ・ロックも好きで、ジュークでいっぱいその方面のレコードを買ってくれたが、楽曲への影響は直接には現れていない。そういう点で、彼らは博多ビートとは違っていた。新しい波で出て来たバンドだ。ただ、今、ボーカル・ギターの山口洋が「博多のロックの流れの中にいた」って言ってくれるのは嬉しい。
ヒートウエイヴに対しては、やり残したことがあるという気持ちがとても強い。今も私は、あの頃もっと絡んでいればよかった、と山口洋に引け目を感じることがある。
自分の生活を見直す時期にも来ていた。子どもも生まれた。家庭もかえりみなければいけない。そこで、一休みすることに決めた。
それから、インディーズブームや「イカ天」ブームが来て、福岡でもレコーディングスタジオが充実し、プロダクションも出来てきた。メディア(●例えば?)もできた。そうすると、今度は地元で何かしようという動きがなくなってきた。



















