<回想録15> 博多ビートユニオンとロッククラッシュ 80‘Sファクトリー
「初公開!本人が綴る ジュークレコード・松本康ヒストリー15」
松本康の遺品の中から、自ら人生を振り返った手記が見つかった。
博多のロックの嚆矢・サンハウスの面々との出会いで音楽にのめり込んだことなど一部の経歴は知られていたが、幼少時からの詳細な記述はこれのみと思われる。博多の名物レコード店の主がどのように生まれたか、本人による「メイキング・オブ・松本康」の趣あり。数回に分けてお届けする。
第15回は、パンク勃興でロックコンサートが会場から締め出される事態となり、地元人気バンドの演奏場所を作ろうと奮闘した時期のこと。今や伝説的なライブハウス「80‘Sファクトリー」も登場する。
※本文中の(●)内は松本が推敲の要ありとメモしていた部分
【博多ビートユニオンとロッククラッシュ】
その少年文化会館で、1979年2月13日、イギリスのパンク·バンド、ストラングラーズが来日公演を行い、興奮した客がイスを壊すという事件が起きた。全国的にもパンク·ムーブメントが盛り上がっていた頃だった。それでいろんなホールが「ロックに貸したら何するか分からない」と、ロックバンドを閉め出すようになった。
「こりゃいかんね」。せっかく私もバンドと関わって何かをやろうという思い始めた矢先だった。森山と「自分たちでなんとかしようや」と考えた。まず、みんなで集まって話そう。
「ロックは開場使用拒否を受けました。ライブをできる場所をつくるため、集まりましょう」というチラシを謄写版で刷り、「バンドマンに声かけとっちゃってん」と、あちこちへ配って回った。
サンハウスが入りびたっていた福ビル地下の喫茶店「アウトリガー」、そのサンハウスの元マネージャー甲斐田寛が西鉄春日原駅の近く(●正確?)で開いていたレコード店「ディスクジャック」、東区のジャズ喫茶「レノン」、それから「多夢」、「ダークサイドムーン」などなど。元サンハウスの篠山哲雄や山部善次郎、そして九大音鑑(九州大学音楽鑑賞会サークル)の学生にも協力してもらった。
集会の会場は、「ダークサイドムーン」が場所を貸してくれた。3月11日の日曜日、モッズのメンバーはもちろん、ロッカーズの陣内、穴井仁吉、鶴川仁美、ザ·ルースターズの大江慎也、そして山善たちが一堂に会した。彼らはその後「めんたいロック」ムーブメントの立役者となったが、そのときはまだ若く、全国的にも無名だった。その後もそれぞれが努力を重ね、ミュージシャンとして名を馳せていったのだ。
その日の議題は、「ロック等の音楽に興味がある人のコミュニケーションの『場』の確立」と「定期的な自主コンサートの開催について」だった。このときいろいろな話をして認識を共有し、「オレたちは1人ではない」という意思の疎通ができたと私は思っている。この会議体は「博多ビート·ユニオン」と命名された。
ライブ会場を締め出されたバンドマンたちが、次の会場として閃いたのが九州大学教養部の学生会館だった。以前、サンハウスもライヴをしたことがある場所だ。そこで「ロック·クラッシュ」というライブ·シリーズをやろうということになった。だが、ロック·クラッシュでは「博多ビート·ユニオン」の名前を表に出すことはできなかった。九大での催し物は九大の学生でないと主催者になれないのだ。そこで、やる気のある九大音鑑の学生が「おれたちがやりますよ」と手を上げてくれ、彼らが名義主催者となった。

ロック·クラッシュ第1回は●月●日開催された。メイン·バンドはシーナ·アンド·ロケッツで、ほかに●●らが参加した。
第2回は6月30日、モッズをメインに、モダンドールズ、ジギー、メインストリートバンドが共演。
3回目は8月●日、●●が出た。
やればできるのである。私は今の若いバンドマンたちに言いたい。みんなそれぞれ問題を抱えているだろう、だったらそういうことをやってごらんよ、と。
ロック·クラッシュは計4回やった。4回目は10月27日、フルノイズ、スイートバージニア、ハングリーベガーズバンドが出て、ロッカーズがトリを務めた。九大生のやる気が増してきて主体性が出てきたから、彼らに任せることにした(●4回目を任せたということ?)。そして私は自分の店のことに戻った。


【80‘Sファクトリー】
若いバンドが力を付けてきていた。そしてちょうどいいタイミングで、ライブ·ハウス「80‘Sファクトリー」が舞鶴(福岡市中央区)に開店した。1979年8月のことだ。
80‘Sの店長を務めた伊藤恵美は、以前西通りにあった「会者常離風離」という店(●パブ?)にいて、土曜日の夜にお客さんやスタッフと手作りのライブを開いていた。風離には奈良敏博のバンドも出ていたはずだ。
当時は飲食店グループ「てっしい村」の全盛期で、天神三丁目の親不孝通りに系列店が5、6件あった。風離もてっしい村グループの一つだったが、ライブハウスではなく、音響はボーカル用のスピーカーがあるだけ、照明も大きな懐中電灯で照らすというような状況だった。
伊藤恵美は「ちゃんとしたステージをやらせたい、ライブハウスがいる」と社長に頼み、それで80‘Sが出来たのだった。オープニング・ライブは8月23日に催され、モッズ、ロッカーズ、フルノイズ、ダイナマイトゴーン、バッドBOX、スイートバージニアが出演した。
この頃、ロッカーズも、モッズと並んで博多を代表するバンドに育っていた。彼らは、その年の7月、ヤマハ主催の全九州代表バンドコンテスト「6th L-MOTION」で、最優秀グランプリを獲得している。ちなみにそのときのグランプリバンドにはルースターズの母体となった人間クラブがいる。やがて、ロッカーズは東京のレコード会社から声がかかりデビューがきまった。そして、翌80年の3月、博多を後にした。


ザ·モッズはそのロッカーズより格上であったが、まだ東京へ行く意志が固まっていなかった。私のプロデュースでシングル·レコードを作ろうという話もあったが、当時の福岡の状況では、録音の仕方やプレスの方法が分からなかった(●いつごろ?スタジオ19は79年8月に完成し、シーナ&ロケッツを録音したことになっている)。資金もなく、それはあきらめざるを得なかった。
それから少し後、モッズの音楽が石井聰互監督の映画「狂い咲きサンダーロード」(1980年)のサウンド·トラックに抜擢された。
そのトラックは有住寿一という男が糟屋郡須恵町の自宅の近くにコンクリート·ブロックを積み上げて作った「スタジオ19(ジューク)」で、1980年の春に録音された(私のレコード屋と同じ名前だが、直接の関係はこの時点ではない●要確認)。この音源が東京で出回って、評判になった。「九州にモッズあり」と言われ、東京から頻繁に誘いが届いた。
そしてようやくモッズは上京を決めたのだった。彼らの博多でのラストライヴは、やはり80‘Sファクトリーだった。●月●日と●日の2デイズで80‘Sの最高動員記録●●人を樹立し、翌81年1月に東京へと旅立って行った。

