<回想録12> 光が見えた!

「初公開!本人が綴る ジュークレコード・松本康ヒストリー12」
松本康の遺品の中から、自ら人生を振り返った手記が見つかった。
博多のロックの嚆矢・サンハウスの面々との出会いで音楽にのめり込んだことなど一部の経歴は知られていたが、幼少時からの詳細な記述はこれのみと思われる。博多の名物レコード店の主がどのように生まれたか、本人による「メイキング・オブ・松本康」の趣あり。数回に分けてお届けする。
第12回は、ついにレコード屋開業を決心し行動に移すお話。
※本文中の(●)内は松本が推敲の要ありとメモしていた部分

【光が見えた!】
 1976年12月27日(●28日?)、天神の喫茶店「風街」に行った。風街は高校時代の同級生、森公英(もり・こうえい)がやっている店だ。
 「松本康はずっと塾するとや?」と森が聞く。
 「稼いではいるけど、これがしたいわけじゃない」と答えた。
 ロック喫茶もやってみたいとは思っていた。でも、レコード屋は気を使わなくていいから、もっといい。お客さんはサンハウスや他のバンドのメンバーなんかで100人にはなると考えた(だが、後でそれは誤算だったと気づいた。ミュージシャンはレコードを買わないのだ。バンドのことで金がかかるから、テープ·コピーで済ますことが多いのだ)。
 「このビルみたいなところで店が借りれたら最高なんやけどね」。風街は森公英の父親のビルにあった。
 「空いとーぜ、ここの2階」

松本と森公英氏

 森のこの一言でバチッと電気がついた。映画「ブルース·ブラザース」でジョン·ベルーシ扮するジェイクが天啓を受け「バンドだ!」「光が見えた(I See The Light)!」と叫ぶ、まさにあの感じだ。ちなみに、映画は1980年だから私の方が早かった。
 「レコード屋だー!」オレは長年レコードを買っている、だからオレの欲しいもの、かゆいところに手が届くものを揃えれば必ず売れる。
するばい!森、家賃がいくらか聞いておいてくれ。正月明けて7日に会おう。

ジュークレコード入居前の応順ビル(昭和通り沿い)
「小原流いけばな教室」看板の下の階(2F)
1階は喫茶店「風街」

 年が明けて再び森と会った。天神で店鋪を借りるとなると当時で1000万ぐらいは資金が必要だった。森の父親のビルもまず敷金で200万円必要ということだったが、森は「敷金用意できるなら、家賃7万でいいよ」と言ってくれた。
 私は塾で稼いではいたけれど、お金を貯めていたわけではなかった。本を買ったりレコードを買ったりで、所持金は5万円。それで母親が5万円を出してくれた。合わせても10万円にしかならなかった。

 それで国民金融公庫や起業相談所などに借りに行ったが、実績がないと貸してくれない。何年営業しているか、同じ業種にどれだけいたかを聞かれたが、そんなものはない。
次は中小企業相談所に相談に行った。行く前に、売上、家賃、人件費など、いろいろ書き出して事業計画書を作った。
持って行ったら「電気代は毎月2万となっているけれど、暖房は?冷房は?夏や冬は増えたりするでしょう?人件費も、忙しくなったら人を入れるんじゃないの」と言われて突き返された。
何度も計画書を書き直した。セールスポイントも明確にしなければならない。ハッタリで人の名前(●誰?)を出させてもらい、個人輸入の経験なども伝えた。向こうは知らない人にお金を貸すわけで、当然、担保を出せともいう。
親戚に頭を下げて頼み込んだ。真剣だった。家を担保として貸してもらった。あとは敷金。金融機関の審査が降りないけれど、春になろうとしていて、大家からもいつまでも待てないと言われた。
母親が知り合い(●誰?)に口を聞いてくれた。その人は「あんた、するって決めたっちゃろう」と言って、200万円(●正しい?)貸してくれた。 (●いつ頃?)審査が降りてやっと開店準備に入れた。
 内装の見積もりを業者に頼んだら300万と言われた。そうしたら叔父(●内装経験有?)が「オレが床を貼ってやる」って言ってくれた。
叔父の知り合いの建材店から古い床材を1枚100円のところ1円で譲ってもらい、私も一緒に貼った。そこで床材は床の中心部分から貼るという技を憶えた。担保を貸してくれた親戚が九州電力に勤めていて、配線をやってくれた。結局、トータル100万円程度で済んだ。

 金策と並行して商品の仕入れも進めた。アメリカの“Billbord”、イギリスの“Melody Maker”、”Music Express”などの音楽雑誌でレコード·ディーラーを見つけた。アメリカ、イギリスの各国に10数社ずつ、トータルで30社くらいに照会の手紙(offer latter)を出した。
照会の返事が来て、ディーラーを4社に絞った。アメリカ、イギリスそれぞれに、新譜に強い会社とベーシックなものを扱う会社を1社ずつ選んだ。その4社にこちらの立地や客のこと(●どんな?)などを伝えた。話がまとまると、まずお金を送る。一回の取引の条件は重さ10キロまで。ダンボール箱で何箱(●1箱は何キロ?)も自宅に送ってもらった。

 レコードのジャケットはやはり原産国のものがいい。私は開店当初はイギリスのアーティストはイギリス盤、アメリカの音楽はアメリカ盤で紹介するというポリシーを持っていた。現実には、その方針を押し通すことはできなかったが。まだ、ストーンズはイギリス盤で、というのが定着していない時代だった。
アメリカ盤はごつごつとした感じがいい。見開きにしてもジャケットの背に線が入らないように作られている。
イギリスものはヴィニール·コーティングが施してあり、光沢がある。背も起こしていないでペラペラした手触りが好きだ。アメリカ盤の良さは鮎川誠から教わり、イギリス盤の良さは篠山哲雄から教示を受けた。


 学習塾のほうは1977年の3月まで続けた。最後に「オレが本当にやりたいのはレコード屋なんだ」と言ってやめた。そのときの生徒だった子が、最近、mixiに「夢を追い掛けられていいですね」と書いてくれていた。