<回想録7> スサキ·バウンド サンハウス·ライブ

「初公開!本人が綴る ジュークレコード・松本康ヒストリー7」
松本康の遺品の中から、自ら人生を振り返った手記が見つかった。
博多のロックの嚆矢・サンハウスの面々との出会いで音楽にのめり込んだことなど一部の経歴は知られていたが、幼少時からの詳細な記述はこれのみと思われる。博多の名物レコード店の主がどのように生まれたか、本人による「メイキング・オブ・松本康」の趣あり。数回に分けてお届けする。数回に分けてお届けする。第7回は往時のぱわあはうすの空気とサンハウスのライブについて。
※本文中の(●)内は松本が推敲の要ありとメモしていた部分

【スサキ·バウンド】
 ぱわあはうすは15坪くらいのスペースに、もちろん手作りのテーブルが7個ほどあり、30人座れば満席という感じだった。
階段を下りれば、すぐ右がトイレ、左手がドアとなっていてドアを開けると左手にカウンターがあり、そこの細い部分を通り中に入る。だから、階段を下りて行きこのドアを開けて座席に着くまでは少し度胸がいる。私も店番として3年近くそこをくぐったわけだが、いつも誇らしさと後ろめたさが交錯する不思議な気分になった。

ぱわぁはうす店内と田原氏

 普段は、左右に3個ずつ、2メートルぐらいの高さに積まれたスピーカーから、当時の「ニュー·ロック」が大音響で溢れ出ていた。ジャニス·ジョップリン、トラフィック、フランク·ザッパ。アルバムでいうと「原子心母」「クリムゾン·キングの宮殿」「スーパーセッション」「血と汗と涙」といったところがよくかかっていた。
今でこそありふれたラインナップだが、これをフル·ヴォリュームでかける場所があるということに大きな意味があった。
お客さんも大体無口に、ミニコミなどのいわゆるカウンター·カルチャー雑誌に目を通しながら耳を傾けていたように思う。
そんな場だったから、へらへら笑う軟派な奴は場違いで、そういう輩が入ってくると皆の目は白くなった。入ってきたほうも雰囲気を察知して早々に退散して行った。
 逆にそういう場所を求めて、はるばる遠くから尋ねてくる人も多かった。中には全国を渡り歩くヒッピーもいたが、その連中とは、田原や柴山は美意識が違っていた。この二人は福博で一、二を争う長髪の持主だったが、思想には共通するものがあっても、日本のヒッピーの動向には拒絶反応があったようだった。

 場所は、全く唐突にも「須崎」(福岡市博多区)。須崎問屋街のもうひとつ呉服町寄りの通りを、海側に行ったところの名もない4階建てのビルの地下だった。対馬小路(つましょうじ、福岡市博多区)の電停に近かった。そう、当時は市内電車が走っていた。
博多に生まれ育って20年の私だって、こんな所には来たことがない。回りは倉庫街といった趣で、ロックのロの字もないばかりか、すぐ斜め前は右翼の政治結社の事務所があった。
ぱわあはうすがオープン間もない頃、右派の集会が近くの須崎公園であり、全国から憂国の士が集まり、しかもほとんどがこの事務所に挨拶にくるという事態になった。こちらは、「非国民」と言われそうなロング·ヘアード·フリークばかり。一触即発の空気が漂った。だが、無事にその催しは終わり皆去っていた。そして、その事務所も間もなく移転して行った。

【サンハウス·ライブ】
(●資料によると定期ライブは73年夏以降。「ブルースに~」のほうが早いが?)
 次第にぱわあはうすもロック好きが集まる所となり、初期の目標は達していた。そして次に、ぱわあはうすの性格を決定づけたのが、サンハウスの定期的なライブだった。

 ステージにあたる部分とカウンターを除いた所に客が入ったとしても、せいぜい120人。
サンハウス級になると、イスやテーブルを外の道路に持ち出して、スタンディング·オンリーだ。特等席のカウンター内には、日頃から貢献度の高い者だけが入れた。エッコちゃん(後のシーナ)やヨネ(●どんな人?)やテル(●どんな人?)たち。とくに(●ほかのバンドもやっていた?)サンハウスがやる時は超満員だった。
この頃中ホール(●例えば?)ぐらいは満席にしていたサンハウスだから、宣伝したらパニックになるので、ほとんど口コミの「やるよ」とだけ。それでも300人くらいはすぐ集まっていたので、昼の部と夜の部に分けていた。マチネーのあるロック·バンドというのも面白い。2回見ると曲目が半分くらい違っていたから、私たちカウンター組はたいへん得をしたものだ。

この頃は「キング·スネーク·ブルース」や「雨」などのオリジナル曲中心だったが、客席にいるサンハウス·フリークの大神洋が、例えば「ビッグ·ボートしちゃりい」と言うと、愛想が悪いので通っている菊(柴山俊之)が心安く応じていた。
「ビッグ·ボート」。ただそれだけで演奏が始まる。エディ·ボイドのオリジナルとは異なった雰囲気だが、見事な演奏だった。間奏の鮎川誠のギターは、皆の琴線を響かせ続け、完全に魅了していた。とにかく、期待しても期待しても、それ以上のものを弾く。この時の模様は記憶も鮮明だが、普及し始めたばかりのTEACのカセット·デッキで収められ、今も時々テープからオーラを放っている。
 PAなどというものもなく、簡単なマイク·ミキシングの機材だけで、すべてがアンプやドラムセットから直接に発せられる「生音」だった。

 ところで、私には一つ忘れられないサンハウスの演奏がある。私が辞めて間もない西南大の学園祭で行われた野外コンサートだ(●正確な年月は?)(●もう鮎川さんとは知り合っていたのか?)。
西南大でもその数年前まで、全国的な学生運動の高まりの中、角材とヘルメットの全共斗派と、右翼的な学生や職員たちが対決を続けていた。だが、結局は学校側が秩序を回復し、学園内に生暖かい平穏さが戻った。昨日までの仲間たちは何もなかったかのように授業にもどった。私は学生運動についてはかじった程度だったが、その私でさえ学校あるいは学問に幻滅を感じた。こんな欺瞞的な所は去るべし、という決心をするには充分だった(●正確にはいつ?)。

そんな1971年の秋、西南大のキャンパスの空気は揺れていた。「紊乱」(秩序が乱れること)していたといってもいい(●具体的には?)。角材やヘルメット学生のスクラムを持ってしても、学校の秩序を紊乱することは出来なかった。それよりもはるかに、5人のややノンポリティックな連中が叩き出すロック·ビートの方が効果的だと思えた。この時、私はロックに何かしら深いものを感じた。
 その体験により、サンハウスへの傾倒は決定的になった。以後約5年以上は彼らのライブに皆勤することになる。サンハウスの面々はオフ·ステージでは対称的に、力が抜けていて、「話せる」人たちだった。皆いたずらっぽくて、気立てがいい。そして、裏表もなく、生一本なところがあった。だから、公私ともに親しくなっていった。