<回想録> 浪人時代

「初公開!本人が綴る ジュークレコード・松本康ヒストリー3」
松本康の遺品の中から、自ら人生を振り返った手記が見つかった。博多のロックの嚆矢・サンハウスの面々との出会いで音楽にのめり込んだことなど、一部の経歴は知られていたが、幼少時からの詳細な記述はこれのみと思われる。
博多の名物レコード店の主がどのように生まれたか、本人による「メイキング・オブ・松本康」の趣あり。数回に分けてお届けする。
※本文中の(●)内は松本が推敲の要ありとメモしていた部分

【浪人時代】
 1968年、大学浪人の1年間を過ごした。東京から帰ってきて失意の中、5月にまた胃潰瘍になった。胃に穴が開いて出血した。医者に見せたら即入院になった。病院で吐血して貧血になった。開腹手術を受けた。
今では薬で治すことができるが、当時は切って手術していた。手術のときは、私はもう生死の境をさまよっていた。出血が止まらない。吐血が続く。輸血を受ける。輸血を繰り返すのはよくない(●なぜ?)。輸血を止めて止血剤を入れる。母が右往左往している(●どこで?)。

 手術後1ヵ月半入院した。病院は箱崎の山田病院で、入院中の6月2日の夜、近所の九州大学キャンパスに米軍のファントム戦闘爆撃機が墜落した。そのときの音を聞いた。もの凄い轟音だった。近所にスーパーのユニードがあって、翌朝一番にデモ隊がその前に集結してシュプレヒコールを上げていた。
 退院後、母に「東京の大学には行っちゃいかん」と言われた。「あんたは病弱なんだから東京で一人で暮らせない。行ったら死ぬばい。地元の学校に行きんしゃい」。
当時、私の家では母の弟の子供、つまり私の従兄弟を二人預かって育てていたので、東京の大学へ進んでも仕送りなどは厳しいことは分かっていた。だが、それとは別に、母のこの言葉は大きかった。
私は博多にこだわりがあって住んでいるわけではなかったが、このとき博多を出る機会を確かに一つ逸したのだった。

 浪人中は予備校に通った。県立高校ではよくあることで、学校の横に「研修科」という予備校があり福高の先生が教えに来ていた。そこへ通ってはいたが、勉強には力が入らない。音楽への興味も絶えていた。そんなとき麻雀を覚えた。
 綱場町(福岡市博多区)に雀荘があった。場代は1人1時間10円。10時間で100円。私はだいたい1日10時間いた。アルバイトの時給が150円くらいのころだから、いかに安かったかが分かるだろう。
結局、予備校に行かずに朝から雀荘へ向かうようになった。凝り性の性格も出て、スコアを持って帰ってはなぜ負けたのかを分析していた。勝ちたい気持ちではなく知識欲に駆り立てられての行為だった。
ちなみに私は昔から知識欲が強かった。のめり込むことも多い。例えば、小学校3年生のときのこと、漫画(●例えば?)が好きでずっと読んでいたが、母親に「あんたマンガばっかりじゃだめよ」と言われ、一時期ぱたりとやめた。
マンガの代わりに百科事典を買ってもらい、それをかたっぱしから読んだ。隅々まで読んだ。そういう少年だった

 麻雀のほかにアルバイトもした。中洲の山田フルーツで、夜10時から1時まで、甘栗を炒っていた。時給100円ぐらいだった。近くのラーメン屋さんの食券をくれた。一食浮く。そして自転車で家に帰る。
 昼間麻雀、夜バイト、という生活が12月ころまで続いた。さすがにこれはいかん、と思って麻雀をやめた。
 地元の大学に行け、というので何校か考えてみた。国立の九州大学はレベルが高くて届かない。
当時は国公立大の受験には「指定科目」というのがあって学校別に受験する科目が指定されていた。これが私の得意科目ではなかった(●具体的に)。
次に九州芸術工科大学を考えた。創立されたばかりで、入学できれば第一期生だったが、数学が苦手だったのであきらめざるを得なかった。
それで私立の西南大学の英語専攻科にした。ただ英語が好きだったから英語専攻にした。英文科にしなかったのは文学が好きなわけでもないから。英語専攻だと貿易などの仕事でつぶしがきくのでは、とぼんやりと思ってもいた。ぼんやりと思っていたが、見事合格した。