<回想録16> ヒストリー·オブ·サンハウス

「初公開!本人が綴る ジュークレコード・松本康ヒストリー16」
松本康の遺品の中から、自ら人生を振り返った手記が見つかった。
博多のロックの嚆矢・サンハウスの面々との出会いで音楽にのめり込んだことなど一部の経歴は知られていたが、幼少時からの詳細な記述はこれのみと思われる。博多の名物レコード店の主がどのように生まれたか、本人による「メイキング・オブ・松本康」の趣あり。数回に分けてお届けする。
第16回は、バンドを間近で見届けた者として企画したサンハウス再考企画について。
※本文中の(●)内は松本が推敲の要ありとメモしていた部分

【ヒストリー·オブ·サンハウス】
 1981年。モッズとロッカーズという博多のロックの両雄が上京し、ロック·シーンは空洞化してしまった。山部善次郎もこの頃は実家の紙問屋の修行のため、音楽を離れ四国で暮らしていた。
 ぽっかり空いた状況を憂いた伊藤恵美が、「博多を耕さないかん」と言い出した。それから「温故知新」の運動が起こった。
 当時「めんたいロック」の源流バンドとして、サンハウスの再評価が全国的にじわじわと始まっていた。ロッカーズやルースターズ(1980年11月デビュー)がインタビューなどでサンハウスに影響を受けたとよく話していたし、1980年10月には、未発表曲を集めたレコード「ストリート·ノイズ」が日本コロンビアから発売され、音楽雑誌でも取り上げられていた。一方で、サンハウスのテイチクのオリジナルの3枚はすでに廃盤になっていて、興味を持った人でも手に入れることが出来ず、全体像のつかめない「伝説のバンド」となっていた。

 FM福岡に、土曜日の深夜3時から2時間の枠で「福岡ライブ·エクスプロージョン」という番組があった。伊藤恵美が川本ディレクターに声をかけて「ヒストリー·オブ·サンハウス」というコーナーを立ち上げた。ちょうどその頃、鮎川誠が若松のシーナの実家に帰省していたので、私がサンハウスのテープを100本ほど借りて、スタジオ19で全部聴いた。そこからピックアップして少しずつラジオでかけていった。1曲1曲、私と伊藤恵美とで解説した(●正しい?)。

ヒストリー·オブ·サンハウス チラシ
ヒストリー·オブ·サンハウス パンフレット表紙

 「ヒストリー·オブ·サンハウス」は人気コーナーとなって、ラジオからライブハウスへ飛び出した。イベントとして、80‘Sファクトリーにお客さんを集めて開催したのだ。1981年の12月27日、28日、29日の3日間、それぞれ昼の部と夜の部を設け、全部で6回行った。
 「ブルースにとりつかれて」のときのようにパンフレットを作った。メンバーの語録やバンドの軌跡、当日かける曲のコメント、そして彼らのレパートリー全曲まで掲載した16頁にも及ぶ力作だ。音源はやはりオープンリールを使った。スタジオ19でカセットから入れ替える作業を行った。
 「ヒストリー」では新たにスライドも使った。会場では曲に合わせてスライドを変えていた。事前に何度もシミュレーションをした。また、日によって流れを少し変えるような工夫もした。司会と解説も私がした。
 6回やって、1回当たり100人は入っていたので、トータルで6、700人ほど来てくれたのではなかったろうか。苦労は報われたように思う。ただ、そのとき私は博多のロックの空洞化により虚脱状態にあった頃なので、少し元気がなかった。そのためだろう、アンケートに「司会が面白くなかった」と書かれていたのも覚えている。
 80‘Sは確かに人気の高いライブハウスだった。全国的にも有名な店で、各地から人がやってきていた。ただ、ライブハウスというのはお客さんの回転が良くはない。ライブをやるとそれを見に来たお客さんの人数分しか収益が上がらないのだ。80‘Sもやがて経営的に行き詰っていった。伊藤恵美にはまだ、博多のミュージシャンを育てたい気持ちがあった。だが、社長は居酒屋にしたほうが儲かるという決断をした。そして「ヒストリー・オブ・サンハウス」イベントのわずか3カ月後、1982年3月31日、モッズのスペシャル・ライブをもって80‘Sファクトリーは閉店した。