<回想録14> サンハウスの解散 バンドマンとのつながり
「初公開!本人が綴る ジュークレコード・松本康ヒストリー14」
松本康の遺品の中から、自ら人生を振り返った手記が見つかった。
博多のロックの嚆矢・サンハウスの面々との出会いで音楽にのめり込んだことなど一部の経歴は知られていたが、幼少時からの詳細な記述はこれのみと思われる。博多の名物レコード店の主がどのように生まれたか、本人による「メイキング・オブ・松本康」の趣あり。数回に分けてお届けする。
第14回は、サンハウスの解散からシナロケ結成、そしてモッズやロッカーズといった後続の若手バンドとの交流が始まった時代について。松本とモッズ森山・北里氏とのエピソードは2人の近著「Hey! Two Punks The Mods : The Early Days 博多疾風編」にも登場する。
※本文中の(●)内は松本が推敲の要ありとメモしていた部分


【サンハウスの解散】
1978年の3月の終わり頃だった。鮎川誠が店に来て「サンハウスを解散した」と言った。淡々とした口調だった。それまでが大変だったから、解散といっても悲愴な感じはしなかった。
ぱわあはうすは「ダークサイドムーン」という店に変わっていた。鮎川誠はやはりそこで練習していた。その後、上京しシーナ·アンド·ザ·ロケッツを結成、11月にデビューした。私も最初のシングル盤「涙のハイウェイ」のチラシを作って、店で配るなどした。




【バンドマンとのつながり】
その頃から若手バンドとのつながりが出来てきた。
ジューク·レコードの最初の店員のお姉さんが印刷会社に務めていて、ポインターシスターズをもじって、プリンターシスターズという名前を付けていたのだが、そのお姉さん(●正確?)が、陣内孝則が率いるザ·ロッカーズを好きだった。
それで「康ちゃん、好きと思うよロッカーズ、ラモーンズのごたあもんね」と言って、ライブに誘ってくれた。
照和の上で(●そこは照和?)初めてロッカーズを見た。ザ·モッズの森山達也が若手バンドを集めて開いていたライブ·シリーズ「ヒストリー·オブ·ブリティッシュ·ロック」の何回か目だったと思う。まだ、デビューメンバーになる前の頃だ。それで、モッズとも話すようになった(●声をかけたのはどちらから?)。


店番の女の子から「モッズっていう面白いバンドがいますよ」と聞いた。モッズは照和でライブをやっていた。照和は現在の場所にではなく、●●にあった。その4階でライブをやっていた。私は照和がロックもやり始めたことに驚いた。モッズは、アンチ照和のサンハウスと違い、近づきやすい若手だったのかもしれない。
モッズのライブを見る前にメンバーとは会っていた。ベースの北里晃一は何度かジュークにレコードを売りに来ていた。ヤードバーズやデーブ·クラーク·ファイブなどを買い取ったと思う。買い取り平均価格が100円や200円のときに、いいものであれば1000円ぐらいで取っていたので、喜んで売ってくれていた。
バンドマンはもともとレコードを買わないと前に書いたが、頑張って人が持っていないようないいレコードを買ったとしても、だんだん活動などでお金が必要になって、やはり手放さざるを得なくなる。柴山俊之も「●●売ったもんね」と話す。そういう意味で困るのは山部善次郎だった。ジャケットに「ジャッキー」(●?)などと書いてある。私も「お前、売るんなら書くな」と言っていた。
北里がレコードを売りくるときは、森山が付き添いでいた。後日北里に聞くと、あのレコードは実は森山のものだったらしい。森山にしてみればロックスターが金に困ってレコードを売るなど格好悪い、ということだったのだろう。だが北里は「森やんは値段がいくらついたって、後ろからちゃんと見よった」と付け加えた。
モッズは当時、「ヒストリー·オブ·ブリティッシュ·ビート」を主催したり、友泉亭(福岡市西区、現城南区)に出来たライブハウス「多夢」(たむ)に出演したりしていた。精力的な活動の結果、お客も増えて手狭になりつつあったらしい。私の店に顔を出して「もうちょっと広い、300~500人ぐらい入るところでやりたい」と話していた。当時、そのキャパでライブができるのは福岡市立の少年文化会館(現少年科学文化会館)ぐらいだった。


