<回想録11> 何をしたらいいのか
「初公開!本人が綴る ジュークレコード・松本康ヒストリー11」
松本康の遺品の中から、自ら人生を振り返った手記が見つかった。
博多のロックの嚆矢・サンハウスの面々との出会いで音楽にのめり込んだことなど一部の経歴は知られていたが、幼少時からの詳細な記述はこれのみと思われる。博多の名物レコード店の主がどのように生まれたか、本人による「メイキング・オブ・松本康」の趣あり。数回に分けてお届けする。
第11回はぱわあはうすを辞め、ひたすらレコードを買って聴いていた時代のこと。塾経営で懐は暖かかったが、次第に音楽への思いは募っていく。
※本文中の(●)内は松本が推敲の要ありとメモしていた部分
【何をしたらいいのか】
1974年。この年から2年間が、私の“DIG”の時代だ。最も音楽を聴いていた時期だった。
鮎川誠や篠山哲雄を師匠として、いろいろ教えてもらった。もう、レコードを買いまくった。
日本楽器では、ぱわあはうすのスタッフにはレコードを安く売ってくれていた。私はもうぱわあはうすを辞めていたが、その恩恵にだけは浴させてもらった。
ほかに、主要取り扱い商品を大人のおもちゃから中古レコードに変更した「田口商店」や、西公園(福岡市西区)の近所にできた輸入盤屋の「ビッグ·ピンク」などでよく買っていた。


その一方で、23、4になって、学校時代の友達は勤めに行っているのに、自分は何をしているのだろうと思っていた。
音楽は好きだが、サンハウスを見れば自分がプレイヤーになれるとは思えなかったし、音楽ライターの道があるわけでもなかった。塾の方だけは稼ぎがよく、今のお金にすると月7、80万ぐらいにはなっていた。
塾の仕事は子ども相手だったからまだ良かったが、それでも引きこもりぎみになっていた。家をあまり出なかった。たまに鮎川家へ行くぐらい。その頃既にサンハウスはバリバリだった。「置いていかれよる」と、気後れも感じていた。
音楽は好きだったが、それで何をしたらいいのかは分からなかった。サンハウスでさえ食べて行けなかったのだ。
1975年。レコード買いは地元の店では飽き足りなくなった。サカネ楽器のほかに、東京の芽瑠璃堂や大阪堺のSam‘sなどからも通信販売で買うようになっていた。1974年から1975年にかけてLPを200枚ほど買っただろうか。1枚2千円として40万円。今の貨幣価値では200万円くらいになる。
個人輸入も覚えた。確かブルースの雑誌の広告で知ったのではないか。「J&F」というアメリカ·カリフォルニアのレコード屋から取り寄せるようになった。ブルースとリズム·アンド·ブルースの専門店だったが、カントリーや古いフォークなども扱っていた。
サンハウスのメンバーに頼まれて、一緒に何十枚も輸入していた。もちろん英語でやり取りするのだが、語学力は塾で中学生の3年間のカリキュラムを3回くらい繰り返して教えていたので基礎、文法の力ができていた。あとは単語の問題になる。
商業英語は専門的で難しいのだが、個人輸入はシンプルな英語で済む。何日に、いくら、お金を送った、などを系統立てて書けばいいだけだ。
その頃、自分でロック喫茶をやりたいと思っていた。やるなら天神だが、開店資金に当時で一千万円はかかった。時給が二百五十円の時代で、1日働いて二千円。生活費で半分使ったとして残り千円。そのペースだと一万日、約三十年かかるのであきらめた。
その年、サンハウスがメジャー·デビューした。サンハウスのぱわあはうす出演は1974年までだったので、以前のようにひんぱんに見ることはなくなった。塾があったのでツアーについていくこともできなかった。ただ、虫山蝶太郎が宮崎出身だったので彼の実家に泊まって宮崎のステージを見たことはあった。
塾講師をしながら音楽を聴くという生活を続けていた。塾は、テスト問題を自分なりにアレンジして作るなど、結構熱心だった。授業用のプリントは謄写版で作った。「ブルースにとりつかれて」の資料作りでも活躍したやつだ。今では謄写版は捨てたが、鉄筆と下敷きはどこかに残っていると思う。私はあまりモノを捨てる人間ではないが、思い出してじっくり見るタイプでもない。過去の記録もファイルだけして、読み返すことは少ない。明日のことの方が大事なのだ。


【レコード屋をやりたい気持ちが出てきた】
1976年。ひたすら学習塾と通販の生活を送っていた。
学習塾は最初、近所の子供を預かる託児所みたいな感じで始めた。子供が分からないところを側で教えるようなやり方だった。最初に来た子は「康兄ちゃん」と呼んでくれていた。
受験のための勉強ではなかった。私が教えた勉強方法としては、例えば「坂道方式」がある。坂道を登って行くと、だんだんきつくなる。だけど、一度戻って勢いをつけると登れる。4年生の算数が分からなかったら一度3年生の算数に戻る。3年の勉強なんて1カ月もあれば、遅れていても簡単にできる。はずみがつくと一気に上がれる。一つが好きになったら、いろいろ覚える、物事を習得する方法を知る。一つやり方がわかったら、他でもやり方が分かるようになる。そういう勉強の楽しみを教えていた。
その気持ちをまず伝えたい、という思いが私にはある。よく「北風と太陽」の話をするのだが、自分からコートを脱がせるようにもっていきたい。四六時中その子と一緒に生活するわけではないから、全部は教えられない。だから、興味を持つということを教える。
ただ、逆にそういうことを真剣にやり続けると疲れる。毎年それを繰り返していくことを考えたら少しおっくうになってきていた。
実際、生徒は口コミだけで集まっていたのだが、増えすぎて手におえなくなっていた。最終的には40人ほどに膨れ上がり、週6日教えていた。昼は小学4·5年生の合同クラスと6年生の単独クラス、そして夜は中学生を教えていた。自宅でやっていたので、スペースも手狭になった。どこか借りてやらないか、と周りに言われるようになっていた。
ただ、塾はやっているが自分の将来は見えなかった。
鮎川誠たちがマネージメントに苦労しているのを見ながら、何も手伝えない自分がもどかしいというのもあった。音楽は自分の中に入っていける。音楽だったら夢中になれる。私は少しずつ、これまで得た音楽をどうにか何かの形にしたいと思うようになっていった。

