<回想録> ブルースとの出会い ぱわあはうすに参加する
「初公開!本人が綴る ジュークレコード・松本康ヒストリー5」
松本康の遺品の中から、自ら人生を振り返った手記が見つかった。
博多のロックの嚆矢・サンハウスの面々との出会いで音楽にのめり込んだことなど一部の経歴は知られていたが、幼少時からの詳細な記述はこれのみと思われる。博多の名物レコード店の主がどのように生まれたか、本人による「メイキング・オブ・松本康」の趣あり。数回に分けてお届けする。第5回は
ブルースへの傾倒とロック喫茶「ぱわあはうす」への参加の経緯。
※本文中の(●)内は松本が推敲の要ありとメモしていた部分

【ブルースとの出会い】
当時の私の楽しみといえば、雀荘のアルバイト代でレコードを買うことだった。
当時LPはまだ高価で貴重品という感覚だったから、4、5曲入りのコンパクト盤で、ジェフ·ベックやキャンドーヒート、CCR、フィフス·ディメンションなどを買っていた。
また、シングル盤で、パーシー·フェイスの「夏の日の恋」、カルメン·マキの「時には母のない子のように」など、気がむくままに手に入れていた。
そのうちある程度、好きなものが絞られてきた。ショックだった(●どんなところが?)のはクリームだった。その後は、ジョン·メイオール、レッド·ツェッペリン、グランド·ファンク·レイルロード等々といった、お決まりのコースをたどることになる。映画「ウッドストック」にもカルチャー·ショックを受けた。
そしてある日、クリームのむこうにブルースというものがあることを知った。彼らはブルースを下敷きにしているという。
しかし、ブルースがどういうものなのか、当時の情報量ではなかなかその実体が見えなかった。それからというもの私は「ブルース! ブルース? ブルース!!」の日々となった。
まず、手に入れたブルースのレコードは、訳も分からず買った箱入り3枚組の限定版「RCAブルースの古典」だった。
しかし、それが「自分のもの」になるまでは2年以上かかった。文字通り、人に貸していたくらいだ。別府橋(福岡市西区、現·城南区)に出来た演劇集団「無頓着」の、稽古場兼劇場兼喫茶店の「MAT」のレコード·コレクションの一部になっていたのだった。
このレコードは、「限定」という言葉が私を衝動的にさせた。
当時の3枚組4500円というのはかなり度胸のいる買い物だったが、アルバイトだけは熱心だったので懐に余裕があり、太っ腹だったのかも知れない。とにかく、今買っておかないと、という気持ちだった。
なお、この「RCAブルースの古典」は好評だったため、その後10年以上も非限定発売となった。

【ぱわあはうすに参加する】
1971年の新学期を迎えたある日、キャンパスで田原裕介が「君もロック好いとっちやろう」と声をかけてきた。「今度ロックの店を作るから遊びにおいで」と誘われた。
場所を聞き、工事中のところを訪ねてみた。皆で手作りしていた。MATもそうだったが、当時スポンサーなんてある訳がなく、自分たちで安上りに作るしかなかった。アングラ演劇やロックなど、奇人変人のたわ言ぐらいにしか世間は思っていず、それに投資しようなんて人はいなかった。逆に、スポンサー付きではアングラ演劇でもロックでもなかったろう。
ばわあはうすやMATや私にとって、フォークのメッカと言われた「照和」などは、エスタブリッシュメントの象徴の一つのように思えたものだ。

ばわあはうすは田原と山崎●●の二人を中心に、その高校時代の友達の計7人が金策、大工、情宣、問題処理などをして「忽然」と始めた。
当時、東京や関西には数店ロック喫茶という代物ができていたが、福岡には皆無だったし、実現しようとした人もいなかったのでまさに忽然という感じだった。
田原はこの頃(●ぱわあはうすを開店する前?)、川端(福岡市博多区)のジャズ喫茶「リヴァーサイド」を借り切って、ロックのレコード·コンサートを開いていた。
レコード·コンサートとしか言いようがないが、レコードをかけて曲を解説するようなクラシックのそれとは無縁な、ただ大きい音で、なんの気がねもなくありったけのレコードをかけるという類のものだったらしい。
言ってみれば、ロック·レコード·パーティといったところだろうか。それほど、ロックなんて白眼視されていて、市民権なんて言葉は想像すらされていなかった。
田原にはとにかくやる気があった。そうでなければ、ロック喫茶なんてものはできない。いや、必要性に迫られていたといった方がいい(●なぜ?)。そこが当時の私にはないものだった。
そんな気持ちで始めたぱわあはうすだから、何かしら「勢い」があった。でも、早々と壁にぶつかった。
7人の侍が、すぐに2人になったのだ。結局、必要性に乏しい5人は単なる手助けで、他にすることがあるので、ぱわあはうすには没頭できない。2人のうちの1人だった山崎も横浜の学生だったから、復帰しなければならなくなっていた。
昼日中は大騒ぎしていた子供たちが、夕方になると一人一人家路につき、まだ遊び足りない子が夕焼けのわびしさを感じながら外にたたずんでいるのに似ている。
わたしが再びぱわあはうすを訪れたのはそんな時だった。田原の目が私に何かを訴えていた。そして静かに口を開いた。
「みんな辞めた。おまえしかおらん」。「…じゃあ手伝いましょうかね」と答えた。
<お知らせ> 次回、「大学を中退する〜サンハウスとの出会い」は7月10日木曜日掲載予定です。