<回想録> 大学時代 学生運動の渦の端で
「初公開!本人が綴る ジュークレコード・松本康ヒストリー4」
松本康の遺品の中から、自ら人生を振り返った手記が見つかった。
博多のロックの嚆矢・サンハウスの面々との出会いで音楽にのめり込んだことなど一部の経歴は知られていたが、幼少時からの詳細な記述はこれのみと思われる。
博多の名物レコード店の主がどのように生まれたか、本人による「メイキング・オブ・松本康」の趣あり。数回に分けてお届けする。
第4回は地元の大学に入学してからのお話。のちの音楽航路に影響を与える出会いが起きはじめる。
※本文中の(●)内は松本が推敲の要ありとメモしていた部分
【大学時代 学生運動の渦の端で】
1969年4月、西南学院大学外国語学部英語専攻科に入学した。
再び音楽を聴き始めた。実は浪人中、少しジャズを聴いていた。中洲(●正確?)に「KELLY」というジャズ喫茶があって、そこへよく行ってはジャズを聴いていた。しかし身には付かなかった。
それが大学に入って自由を得、音楽を貪るように聴きだした。1967年にポップスやロックに対しての興味を失くしていたが、それからわずか2年ほどの間に「ニュー·ロックの時代」に変わっていた。
「ニュー·ロック」とは、ポップスとは一線を画す、また50年代のロックとも違うことを表す日本製の造語だが、まさにその頃、ジミ·ヘンドリック、ドアーズ、ジェファーソン·エアプレイン、レッド·ツェッペリン、CCRなど、個性の強いバンド、ミュージシャンが次から次へと世へ出ていた。
「オレ、何も知らん、何しよったとかいな」というカルチャー·ショックを受けた。と同時に、視野がぱっと広がったような嬉しさも感じた。

当時は70年安保を目前に控え、学生運動が真っ盛りだった。西南大は過激ではなかったが、私も4·28沖縄デーや国際反戦デーなどのデモには参加していた。
教室でもクラス討論会、通称「クラ討」がよく開かれていた。みんな、何かあったら議論(●議題は例えば?)をしたがった時代だった。あるクラ討で議長のなり手がいなかったことがあった。「じゃあオレがやる」。そのとき、なぜだかは分からないが、私は自ら手を挙げて議長になったのだった。
家計は相変わらず余裕がないので奨学金を申し込むことにした。学内での説明会に行ったが、資格がないと言われて断られた。奨学金の審査には高校時代の成績が勘案されるのだが、それが良くなかったのだ。
奨学金が受けられないので、アルバイトを探すことになった。

左から、森公英氏、(お名前不明)、松本、上田恭一郎氏
(情報協力:上田恭一郎氏)
大学の近所、西新(福岡市西区、現·早良区)に映画館があって、その地下に雀荘があった。ある日そこで「アルバイト募集」という貼り紙を見つけた。とりあえず中に入って打ってみた。店の人から「あんたうまいね」と褒められた。「代打ちせんね」と言ってもらいアルバイトをするようになった。授業はその合間に出ていた。雀荘のアルバイトは2年ぐらいやったと思う。
雀荘のアルバイトで、大切なことを憶えた。勝ってもいけない、負けてもいけない。勝つと「場代払っとるのに掛け金まで取るんか、絞り上げるつもりや」と怒られる。負けると金を払わなければいけないし、「あんた下手やねー」とやはり店の人に怒られる。常に2位を保たなければいけない。ちょっと勝ってやめておく。強い相手もうまくかわさなければならない。非常に高度なテクニックがいるのだ。
ある意味で人生の哲学を学んだと思っている。麻雀ではみんな、自分の手だけしか見ない。だが、麻雀は1人でやっているわけではない。常に冷静でいて、状況を見る。俯瞰する。出るときは出る、引くときは引く。表にしゃしゃりでないで、負けない。そうやって強くなる。
人生何ごとからも学べる。それがどこかで生きてくる。八百屋さんでも魚屋さんでも、どこかでアルバイトしているだけでも、気持ちしだいで自分なりに学べるし、何かに役立つ。だから自分の店でもスタッフには、てれっと仕事をするなと言っている。
大学入学と同時に、家で預かっていた従兄弟の勉強を見てやるようになった。これが後に学習塾になっていく。(●下の段落とのつながりは?)
近所の人から子どもに勉強を教えてほしいと頼まれて、何人か見てやるようになった。子供たちは「頭のいいあの大学のお兄ちゃんに勉強習いなさい」などと言われたらしい。始めた頃は10人ぐらいだった。それがだんだん増えていった。
大学ではクラブ活動はしなかったが、俳句部に友達がいたので、部室に入りびたっていた。そこで田原裕介と知り合った。話してみると高校の先輩だった。田原はのちにロック喫茶「ぱわあはうす」を開き、私の人生のキーパーソンの一人となった。

【大学でバンドを組んだ話】
1970年。
初めて世に出す話だが、実は当時、私は人生最初で最後のバンドを組んだのだった。4人組のバンドで、うち3人は俳句部の連中、もう1人は学外の人だった。私のパートはサイド·ギターとサイド·ボーカル。ハモりもやっていた。バンド名は「Gently Weeps」。
お察しのとおり、ビートルズ「ホワイト·アルバム」に入っているジョージ·ハリソン作の名曲“While My Guitar Gently Weeps”から名前を取った。当然、ビートルズのコピーバンドだ。ちなみに、バンド名“Weeps”の“s”は三人称単数現在の“s”ではなく、名詞の複数形の“s”である。
曲は“She Loves You”などのベタなものはしないで、“You're Going To Lose That Girl(恋のアドバイス)”や“Nowhere Man”などのヒネたヤツをやっていた。
Gently Weepsは大学祭の後夜祭などに出演した。後夜祭では塾の生徒が見に来ていたのを覚えている。キャンパスに作られたステージの上から、チューリップの財津和夫さんが私たちの演奏に合わせて踊っていたのが見えた。財津さんは大学の先輩で、それ以前にも、学食で当時のメンバーとギターを弾きながら練習していたのを見たことがある。ビートルズの“If I Needed Someone(恋をするなら)”なんかをやっていた。楽器もうまかったが、特にハモりが上手だった。
チューリップの話で思い出したが、武田鉄也率いる海援隊も見たことがある。今では想像しにくいが、武田鉄也がロックンロール“Johnny B. Goode”を歌っていた。ほかのステージではアメリカンハードロックバンドのマウンテンの曲もやっていたらしい。その頃から武田はサンハウスの初代ドラマー石岡賢一と仲が良く、石岡が海援隊のバックでドラムを叩いていた。
<お知らせ> 次回、「ブルースとの出会い〜ぱわあはうすに参加」は7月3日木曜日掲載予定です。