<回想録> 中学〜高校時代

「初公開!本人が綴る ジュークレコード・松本康ヒストリー1」
松本康の遺品の中から、自ら人生を振り返った手記が見つかった。博多のロックの嚆矢・サンハウスの面々との出会いで音楽にのめり込んだことなど、一部の経歴は知られていたが、幼少時からの詳細な記述はこれのみと思われる。
博多の名物レコード店の主がどのように生まれたか、本人による「メイキング・オブ・松本康」の趣あり。数回に分けてお届けする。
※本文中の(●)内は松本が推敲の要ありとメモしていた部分

【中学時代 音楽を意識し始めた頃】
 1962年4月、福岡中学校に入学した。福岡中学は東公園(福岡市博多区)の隣にあった。
 2年生のときにバスケット部に入った。弱いチームでバスケットを好きな者が集まっただけのクラブだったから、それほど激しい練習はしなかった。隣のバレー部は県大会にもよく出場する強豪だった。彼らが回転レシーブなんかを練習している横で、のんびりとやっていた。

 1964年2月、ビートルズの日本での初めてのシングル盤「抱きしめたい」が発売され、その人気が盛り上がり始めていた。中学2年から3年の頃のことだが、私にはそれほど興味がなかった。ビートルズよりクレイジーキャッツが好きだった。
 中3のとき、友だちが日曜日に集まってレコードを聴く会を開いていた。食べ物や飲み物を持ち寄って、居心地はよかった。かけているものが洋楽で、当時は音楽そのものに大した興味がなかったので、まあ友だちにつき合うといった程度だった。
ジャン·アンド·ディーンの「パサデナのおばあちゃん」、シルヴィー·ヴァルタンの「アイドルを探せ」などがちゃちなポータブル·プレイヤーでかかっていた。そこで初めてローリング·ストーンズの「サティスファクション」を聴かされ、「うわー、歌が下手かー」と驚いた。ビートルズは、まだハーモニーなどがきれいで、初めて聞く人にも親しみやすいところがある。これがストーンズになると、「アイキャンゲンノー」などと叫んでいて、何だか分からない。ギターも音が濁っているし、「何かいなこれ」という、よく理解できない気持ちがあった。
 友だちの輪にそうやって入って、音楽に惹かれるものはあったけど、のめり込む程ではなかった。受験があったことも傾倒しなかった理由の一つだろう。

【高校時代 ヒット·チャートを追いかける】
 1965年4月、福岡県立福岡高校に入学した。
 その年の1月、高校入学前のこと、ベンチャーズが2度目の来日を果たし、日本国内で大人気を獲得していた。その影響で高校入学後、中学時代の友だちがベンチャーズのコピーバンドを組みだした。
私は、音楽は好きではあったが、バンドをしてみようという気はなかった。

 高校になって初めてレコードを買った。友人たちとの「レコードを聴く集まり」はまだ続いていた。
仲間はせっせとレコードを買っては持ち寄っていた。私はコーラやクラッカーを買って持っていっていたが、レコードはもったいなくて買うことはなかった。
今、レコード屋をやっていながら言うのもなんだが、当時はレコードを買うのは愚の骨頂だと思っていた。友だちが持っているし、ラジオでも聴ける。それにやはり高かった。食欲旺盛な頃で、食べ物に小遣いを使うのはいいが、370円もするシングル盤を買うのは馬鹿馬鹿しいと思っていた。
そのうち「康ちゃんは買わんもんね」と言われ、集まりに入りづらくなってきた。仕方なく近所にあったレコード屋「名曲堂」に行き、ジェイ·アンド·アメリカンズの「カラミヤ」、ジェリー·アンド·ペースメーカーズの「マージー河のフェリーボート」などを試聴した。つまり、メロディーがあるのが好きだった。
名曲堂は何回でも試聴させてくれたので繰り返し聴いているうち、でもこれはきっとすぐに飽きるだろうと思った。何だかガチャガチャしているけど、妙に惹かれるストーンズの「一人ぼっちの世界」のほうが何回も聴けると思って、こちらを買った。だから私の初めて買ったレコードはこの曲になるが、その意識は薄い。今手元にも残っていない。
当時はレコードはみんなの共有財産のようなものだった。持ち寄ったレコードを聴きたいやつが持ち帰っていた。私はプレイヤーを含めほとんどただ借りるだけ、しかもなかなか返さない。
 そういうことがその後もずっと続き、自分もかなりポップス熱が高じていき、ついに自分の意志でレコードを買いたくなった。それで、高校1年の冬、1965年の12月に郵便局で年賀状の振り分けのアルバイトをしてお金を稼いだ。時給68円。1カ月で1万円。その給料でLPを3枚買った。シングル盤を買ってもよかったが、友だちはみんなシングルを買うので曲がダブってしまう。アルバムは誰も持っていないし、曲もダブることが少なかったのでLPにした。ビートルズの「ミート·ザ·ビートルズ」と「ラバーソウル」、そしてビーチボーイズのベスト盤を購入した(●どこで?)。値段は1500円、1500円、1800円。
「ラバーソウル」は1966年3月発売なので、予約をして買った。以前、クロマニヨンズのマーシー(真島昌利氏)にその話をしたら「ラバーソウル、予約したんですか!?」と、尊敬の眼差しで見られたことがあった。いや、誇らしい気持ちになった。

 レコードのほかにはクラシックギターを買った。ナイロン弦のやつだ。当時3000円、今だと30000円だろうか。それも友だちとの付き合いのようなもので、一生懸命弾くこともなかった。
 1966年、高校2年生の頃に、ビルボードのヒットチャートを追うようになった。一番音楽的に密度が濃い、面白い年だった。自分のポピュラー音楽史の最初のピークでもある。
 米軍板付基地から流れる極東放送(FEN=ファー·イースト·ネットワーク)をよく聴いていた。後に私の人生に多大な影響を与えることになるバンド、サンハウスの鮎川誠や柴山俊之も聴いていたはずだ。
米軍関係者相手の放送だから、当然、全部英語だ。何を歌っているか全然分からないが、歌詞やタイトルをカタカナで一生懸命紙に書いた。グジュグジュ聴こえるままを書いて、気になる曲を追った。
 その頃、「ティーンビート」という、チャートをきちんと綴じ込みで掲載する雑誌ができた。当時の音楽雑誌の主流は「ミュージックライフ」だったが、チャート資料に惹かれて私は「ティーンビート」派になり、1年間購読した。

 

 高校2年で最初の胃潰瘍になって、夏休み中の40日間、入院した。暴飲暴食がたたったのだ。
当時の私にはストレスなどなかった。甘いものが好きで、コーヒーを飲む時も砂糖をドサドサ入れていた。
これが胃によくなかったらしい。胃の粘膜がただれてきて出血したのだ。
入院中は暇だった。楽しみはやはりラジオ。夜●時には消灯で、イヤフォンなどないから、小さなラジオを抱いて布団をかぶり、真暗闇の中で聴く。そして耳に入ってくるものをとにかくメモした。数週間後に「ティーンビート」が出るから、それで歌手名や曲名を確認する。「『ママス·アンド·パパス』の『夢のカリフォルニア』、これは名曲だな」などと、一人楽しんでいた。友だちとの話題を先取り、という気持ちもちょっとあった。
 だが、チャートを追うのも、その後すぐに興味がなくなった。モンキーズが出て来たときに「作られたバンド」というイメージがあった。ビートルズが「大人の操り人形じゃない」と歌ったが(曲名は?●●)、チャートの上位を走るモンキーズは操り人形の感じがした。それでパタッとやめた。
 レコードもそれほど買わないし、ギターがうまくなりたいなどと思うわけでもない。高校2年までは勉強も全然していなかった。何かに打ち込むわけでもなく、勉強もしない。ただ、大学には行きたい、英語を勉強したいとは思っていた。

 1967年、高校3年生。大学受験を控え、音楽は聴かなくなった。「オール·オア·ナッシング」という私の性格が出ている。レコードも、もう買っていなかった。小遣いが月300円の時代に、LPは1枚2000円もして、値段の感覚としては今の10倍だった。ただ、親戚が多かったからお年玉をもらったり、母からちょっとした食費をもらったりはしていたから、お金に困っているわけではなかった。レコードにお金を使うのがもったいない、という価値観だった。1年生のときに買った3枚で十分だった。

 福岡高校は進学校で、当時3割が女性だった。1年の時は共学クラスで、文学少女たちが「風と共に去りぬ」なんかの話をしているのを横目で見ていた。私は文章も全く書けないし、本も読めなかった。
一度スタンダールの「赤と黒」にトライしたこともあった(●結果は?)。
それまではマンガだけ。漢字も国語で習ったものしか知らない。実際、高校までは「そして、そして」ばかりの文を書いていた。文章には強いコンプレックスがあり、それは22か23の頃まで続いた。
一方、海外のヒットチャートを追っていたこともあって、英語は好きだった。それで、大学受験では東京の大学の英語科を受験した。
 第一志望は東京都立大学(現·首都大学東京)の(●英語科?)だった。第二志望は恥ずかしいので書きたくない。ギリギリ通るかもしれないと思ったが、2つ受けて2つともダメだった。浪人が決まり、予備校に行くことになった。

<お知らせ> 次回、「浪人時代」は6月19日木曜日掲載予定です