<回想録> 少年時代
「初公開!本人が綴る ジュークレコード・松本康ヒストリー1」
松本康の遺品の中から、自ら人生を振り返った手記が見つかった。博多のロックの嚆矢・サンハウスの面々との出会いで音楽にのめり込んだことなど、一部の経歴は知られていたが、幼少時からの詳細な記述はこれのみと思われる。
博多の名物レコード店の主がどのように生まれたか、本人による「メイキング・オブ・松本康」の趣あり。数回に分けてお届けする。
※本文中の(●)内は松本が推敲の要ありとメモしていた部分
【序文にかえて】
「レコード屋を保ちながら、福岡がね、何かいいものを持ってるねっていう街にしたいのは確かやね。
ここではいい音楽を聞いているとか、いいライヴがあるとか、いい音を録っているとか、そういう街にしていきたいよね。」
(2007年 MARUの取材に答えて)
【少年時代】
私は1950年2月8日、福岡市東区馬出(まいだし)に生まれた。
父は岡田功(おかだ·いさお)。大阪出身で、私が生まれる前に母と別れて大阪に帰ったと聞いた。その後、私が6歳のときに亡くなったらしい。
私に父の記憶はない。写真で姿を見たことはあるが、会いたいとか、大阪の家を見たいとか思ったことはなかった。父から母へ送られた手紙が家にあったが、それを読もうとも思わなかった。
母は松本ユキ。大正10年1月20日生まれ。父と離別した後、保険の外交や和裁·洋裁などで生計を立て、私を育ててくれた。

1955年、小学校に上がる前の1年間、私は直方の木屋瀬(こやのせ、現北九州市八幡西区)の母のいとこの家に預けられた。私の家に経済的な余裕がなく、母は昼の仕事のほか夜も飲食店で働いていたためだ。
木屋瀬では近くの遠賀川で泳いだり、畑でジャガイモを掘ったりした。蚊の多い夏には、寝る前に部屋の中で蓬(よもぎ)を燃やして煙だらけにした。除虫菊と言って、蚊取線香の原料になっている蓬だ。
田んぼ道を回るマラソン大会にも参加し、近所の人から商品をもらった。博多の山笠のような、山車を担いで町内を練り歩くお祭りにも参加した。担いでいく途中、商店街の人たちからお菓子をもらった。楽しい思い出だ。
木屋瀬の家のおじさんは、昔は旅芸人で座長をしていたらしい。あるとき、大きな商家の娘だったおばさんと知り合い、駆け落ち同然で一緒になった。おじさんは落ちぶれた元旅芸人でそのときは働いていなかったようだ。
ただ「武士は喰わねど高楊枝」というべきか、礼儀、しつけには厳しかった。お茶碗や箸の持ち方、挨拶の仕方などでよく叱られた。
生活は貧乏のどん底。おばさんは天ぷらやかまぼこを仕入れて行商に出ていたが、それを苦にせず優雅に振舞っていた(●例えば?)。粋な人だったと思う。
精神的にはとても豊かな暮らしだった。私は街っ子で街が好きだが、田舎で暮らしたあの1年間を思い出すたび、気持ちの潤いがよみがえる。

1956年4月、福岡市立馬出小学校に入学。
ベビーブーム世代で1学年に10クラスあり、1クラスに55人がいた。1年生から6年生の全校生徒の数は約2000人。馬出小はグラウンドが狭いため、全校集会が2部制で行われていた。遊び友達は多かった。100メートルほどの通りぞいに同級生が7、8人は住んでいた。
当時は天神(福岡市中央区。福岡市の中心街)に出かけることはなかった。馬出から見て手前の中洲(福岡市博多区の歓楽街)までで事足りていた。呉服町(福岡市博多区)に大丸デパートが、中洲に玉屋デパートがあった。
その頃電停があるところには映画館が何件かずつあった。「ナイト·ショー」というのがあって午後8時を過ぎると入場料が安くなった。私も大人の人(●誰?)について行って見ていた。子供料金で10円か20円ぐらいだっただろうか。中に入るともちろん満席だった。
あるとき、ブリジット·バルドーの「気分を出してもう一度」(1959仏)の予告編があり、初めて見る女性の肉感的な映像に、少年の私は驚きと恥ずかしさで真っ赤になった。
また、日曜日には箱崎の映画館(●正しい?)で早朝映画がかかっていた。そこで東映の「新吾十番勝負」シリーズを毎回見ていた。
小学校の頃は音楽に興味はなかった。3年生のときに勉強に目覚めた。ガリ勉というのではなく、駅の名前を全て覚える子供のような感じだ。実際に駅名を覚えることはなかったが、その頃から一つのものを突き詰めて知りたくなるところがあった。
5年生のときに化学が大好きになった。将来は化学者になろうと思ったほどだ。科学者ではない、化学者だ。薬局から薬品を買い集め、火薬を作って遊んでいた。
あるとき、おもちゃのロケットを打ち上げたのだが、あらぬ方向へ飛んでいき、表に干していた我が家の布団を燃やしてしまった。
母に大目玉をくらい、化学者への道は自主的に諦めるようにした。