ビート·フリークたちの熱いきずな
サンハウスを中心とする博多のロックとその独自性



2003年は、「福岡の」 ロック·シーンにとって印象的な事件が重なった。
陣内孝則は博多で大々的なロケを張って自伝的なロック·ムーヴィー『ロッカーズ』を監督し、若い世代にもセンセーションを巻き起こした。
モッズは自らいばらのインディーズの道を選び、アルバム 「COMPADRE』を世に問うた。
柴山俊之はブルース·ライオンを発展的に解消し、新バンド、ジライヤ (Zi:LiE-YA)の活動を始めた(その後アルバムを発表)。
そして、何よりも長い沈黙を守っていた元ルースターズの大江慎也が眠りから覚め、再びエキセントリックな歌を歌い始めUN (アン)というバンドを組んだ。
さらに、サンハウスのオリジナル·メンバーで、自らのバンド、ショット·ガンを経て、役者に専念していた浦田賢一 (映画「ロッカーズ」の主役ジンのおやじ役)が突然のように、ドラマーとして新しい活動を始め、自作自演のアルバム『翔る~ KAKERU』(歌も本人)を制作した。
また、山口洋も池畑潤二、さらに刎頸の友、渡辺圭一らとヒートウェイヴを再び始動させて、福岡の糸島にあるシエスタ·スタジオで新作「LONG WAY FOR NOTHING』を録音した。
2003年は、ざっとこういった風に、一種のヴェテラン勢の反撃が始まったという印象の1年だったと言っていいだろう。




しんがりは12月4日と5日の2日間にわたって、福岡のライヴ·ハウスCBで繰り広げら れたシーナ&ザ·ロケッツの25周年の記念ライヴ 「Keep A-Rockin'」 (発起人は松本康)だった。
この初日はシーナ&ザ·ロケッツの単独ライヴに始まり、鮎川誠がホストとしてほとんど全曲にギターで参加する博多オールスターズと題したゲストによる3時間に及ぶセッションが繰り広げられた。
・2003.12.4 セットリスト(www.rokkets.com)
・2003.12.5 セットリスト(www.rokkets.com)
二日目は3バンドの競演で、 大江慎也率いるUN、今乗りに乗っているプライベーツ、そしてトリはもちろん、シーナ&ザ·ロケッツといった内容だった。
4日のシーナ&ザ·ロケッツ博多セッションズに出演したメンバーはほとんど福岡在住の、 あるいは福岡出身の、さらには福岡のロックにシンパシーを抱くロックミュージシャンの集合となった。参加メンバーは以下の通り、長いリストになるが出演順に列挙してみる。
鮎川誠 g、 津和野勝好vo&g、篠山哲雄g 、渡辺信之b、 坂田〝鬼平″ 紳一ds、山善vo、 正木和男b(YAMAZEN BAND)、花田裕之vo&g、池畑潤二ds、大江慎也vo、 鶴川仁美g (ロッカーズ~UN)、江崎智b、白井哲哉vo&g、白井俊哉vo&g (ともにショットガン)、川嶋一秀ds、中村吉利vo &g (博多仲良会ブルース·バンド)、石橋凌vo、シーナvo &tmb、 金崎信敏ds (ex. Rokkets)、中野茂樹hca、石井啓介kbd (YAMAZENN BAND)、そしてウルフルケイスケg(当日の飛び入り出演!)。その上にDJとして参加してくれたのはジー·ミッシェル·ガン·エレファントとしての壮絶な解散ライヴ·ツアーを終えたばかりのチバユウスケ (4日)とウエノコウジ (5日)だった。 MC はスマイリー原島 (アクシデンツ)が担当。

長々と前書きが続いたが、こういったことは一体何を意味するのだろうか。
「福岡の」 ロック·シーンと書いたが、正確には福岡周辺出身のロック·ミュージシャンの近況と言うのが正しい。極論すると福岡ロック·シーンというものは今も昔もどこにも存在しない。
1970年前半からサンハウスを中心にロックに魅せられた者の人脈が出来、その後その心情的でなおかつ有機的な、しかも強力な繋がりが今も存在する。ただそれだけのことだ。そういう状況は良くも悪くもサンハウスを中心に動いている。なぜならサンハウスは博多のロックと呼べる最初のバンドだったからだ。
ロックを生んだ二つの場所
ではそのサンハウス以前の博多~福岡の音楽の状況はどうだったのか。サンハウスに至ることになるメンバーやその同期のロック仲間はほとんど例外なく、ダンスホール、米軍キャンプのクラブ、外人バー、ダンス·パーティーなどで腕を上げ、ロックに情熱を傾けていく。その 具体的な有様を少し追ってみよう。
福岡市には1972年まで板付飛行場(空港とは言わなかった)という米軍の基地があり、軍人向けの極東放送 (FEN) のラジオ番組が流れていた。そのことも大きい。キンクス、アニマルズ、ヤードバーズなどのいわゆるブリテイッシュ·ビートに始まり、ドアーズ、ジミ· ヘンドリックス、クリームなどをいち早くFENなどを通じて聞いていた若者が多かった。
1960年代も中盤になると全国的な傾向だと思うが、ダンスホールが隆盛を極める。それ 以前にもダンスホールというものがあったが、決定的に違ったのは60年代のものはエレキ·バンドが演奏し、歌っていたことだった。そこを揺りかごとして多くの名うてのミュージシャンが育った。
まずは後に菊と自らを呼ぶことになる柴山俊之は1965~66年頃、ジョーカーズでギタリスト笠原久義に憧れて、彼のローディーのような事をしながら、ドラムスの練習をしたりしていた。そして、運命を変えるような出来事が起きる。ダンスパーティーのために3曲歌を覚えろと笠原に言われ、無我夢中でその3曲を歌 った。それはリトル·リチャードの「ルシール」 「センド·ミー·サム·ラヴィン」とレイ·チャールズの「アンチェイン·マイ·ハート」だった。
その頃、福岡より南に下った久留米で同じような音楽に夢中になっていた高校生がいた。 鮎川誠である。 鮎川は近所に音が漏れないようにふとんに顔を埋めるようにしてリトル·リチャードの「ジェニ·ジェニ」やレイ·チャールズの「何と言ったら (What'd I Say)」をシャウトしていた。
篠山哲雄が居たアタックは平野義法(通称ヨンちゃん。後にサンハウスのベースとなる奈良敏博の師匠) のグルーヴィーなベースをフィーチャーしたバンドで、主にアトランティックやモータウンのR&B等を演奏してダンスホールを沸かせていた。そして久留米のダンスホール 〝キング"にハコで出演していた時に鮎川誠は ローリング·ストーンズの「ワット·ア·シェイム」をハーモニカを吹きながら現れ、このアタックのメンバーに強い印象を与えた。そして、この時から両者の親交が始まった。
一方、浦田 (当時は石岡) 賢一が居たサンジェルマンもアニマルズ、トロッグス等のブリテ イッシュ·ビートやモータウンをやっていたが、 何よりもバイキングに居た田中オサムの叩き出す完璧なドラミングに夢中になり、その「ボーヤ」になって修行を重ねていた。 そしてこのバイキングでは、後でサンハウスの実質的な初代 のベーシストとなる浜田卓が勇名を馳せていた。まあ、ざっとそう言った感じの位置関係にサンハウスのオリジナル·メンバーたちは居た。
彼らの働き先は主にダンスホールのハコというのもあったが、沖縄、春日原、雁ノ巣、小倉、佐世保、果ては岩国等の米軍キャンプでの外人キャンプでの外人(兵士や基地の従業員) 達の為に当時流行っていたR&Bやロックを演奏するといったものだった。客は勿論アメリカ人でノリの悪い演奏だと親指が下を向くし、あからさまに席を立つ者が居た。逆に彼らの琴線に触れるような演奏をすると、とことん盛り上がって喜んでくれた。あまりの興奮のために喧嘩に近い大騒ぎになることもしばしばだった。
多かれ少なかれ、このような修羅場を経て、サンハウスに至るメンバー達は自分のロックに対する考え方と技量を向上させていった。でもそうしたダンスホールや米軍キャンプのクラブでのハコの仕事は毎日毎日同じようなステージを1日に4~5回繰り返すというもので、演奏は上達するが、逆に無力感を感じることも多かった。
実際、数多くの仲間達がそういう状況に溺れていき、音楽に対する情熱を失っていくことも多かった。
彼らは時には、悪徳マネージャーに騙されたり、ギャラを持ち逃げされる等の経験をしながらも、一方で人前で演奏する充実感に満たされてもいた。
福岡がフォーク、 博多がロック
そして、1969年にアメリカで起こったウッドストック·フェスティバルが全てを変える ようになる。
当時のダンスホールは、一世を風靡していたグループ·サウンズや決まり決まったポピュラーなグランド·ファンク·レイルロードやCCRなどのロック·ナンバーが主流で、 こういった状況に辟易していた連中は、これからどの方向に進もうかと迷っていた時だった。
ウッドストックに代表される新しいロックの動きは彼らを大いに刺激し、その自由な発想に裏付けられた新しいロックにおぼろげながらに自分達の向かう方向が見えたりもした。
そういった時期に篠山、 柴山、鮎川、石岡、そして浜田は、サンハウスの元に集まった。
彼らの仕事場は依然としてダンスホールだったが、ほとんどダンスホール·ブームも末期に達し、彼らの新しいバンド、サンハウスが出演するたびにダンスホールがことごとく潰れていった。
博多駅前の〝ハニー·ビー“、中州の”赤と黒“、 川端の”ヤングキラー"といった具合だった。 なにしろレパートリーが踊れそうにもないブルースやボブ·ディランのナンバーだったからだ。
その頃の福岡には、1971年に別府に "MAT〟 博多区須崎に“ぱわあはうす"という、ライヴも出来るロック喫茶が生まれた。両者とも今で言うライヴ·ハウスというのではなく、普段はロックを大音量でかける喫茶店だった。そして、たまの週末にライヴをするという程度だった。
サンハウスは、ぱわあはうす を拠点に活動するようになるが、それまでは野外コンサートや六本松の九州大学教養部の学生会館でのフリー·コンサートに出演したりしていた (この当時はフリー·コンサートというのが一つの流行となっていた)。
サンハウスを始め、その当時のバンドは、こういった新しい次元での音楽のを求めるのは勿論だが、キャンド·ヒートやジェスロ·タルなど誰もやっていないような海外のロックをディッグするのがひとつのステイタスとなっていた。
特にサンハウスはマディ·ウォーターズやサニ·ボーイ·ウィリアムソンなどのブルースに傾倒して行った。
それも単にコピーするのではなく、むしろ一人のカントリー·ブルー ス·シンガーが歌うような曲をロックのフィーリングでバンド仕立てで演奏するようなこともしていた。
そしてそこから生まれたダイナミズムに溢れたブルースを観て、仕事で福岡に来ていた京都のウェストロード·ブルース·バンドも大いに刺激を受けたと、リード·ヴォーカル永井隆も後に告白している。
サンハウスのそういう姿勢は博多のロック·バンドのひとつの規範となった。
所詮は外国の曲のカヴァーだが、必ず自分たちのアレンジを施さないと博多のロック·シーンでは通用しないという気運さえ生まれた。
それはサンハウスがオリジナルを中心とした音楽性に変化したときもそうだった。後にサンハウスに参加する坂田紳一 (鬼平) や、鮎川誠の心の友、 津和野勝好が居た弟分的なバンド、ブロークダウン·エンジンもフェイセスに通じるややルーズだがグルーヴィーなバンド·サウンドを醸し出していた。
山善 (山部善次郎)や、後期サンハウスのメンバーとなる坂東嘉秀が居た田舎者もサンハウスに触発され、ローリング·ストーンズを自己流に解釈したロックを演奏していた。
ダンスホール無き後、彼らの活動の場は極めて限られていたが、バンド周辺のシンバ達が400~500人のキャパを持つホールでのコンサートを企画したりもしていた。それは文字通 り手作りで、皆が一丸となって街頭でのビラ撒きや、電柱のポスター貼りや、色んな店への協力依頼等でかけずりまわったりした。
1970 年代に入った頃には、急にフォークが人気を博して行くが、 ロックは未だに不良の音楽と白眼視され、市民権を得るなど思いもつかない時代だった。
一方で、福岡にはもう一つの音楽の大きな流れがあった。それは天神に在った“照和”を中心としたフォークの活動でここからチューリッブ、海援隊、甲斐バンド、後には長渕剛たちが巣立って行った。
彼らの名声は全国的なものとなり、一躍福岡は日本のリヴァプールなどと言われるようになったが、ロックの連中はこれを潔しとせず、アンチ "照和“ という気持ちでひとつになっていたところもあった。
しかしフォークが一段落した70年代後期は 照和"もロックに門戸を開き、森山達也のモッズや、陣内孝則のロッカーズも自分達でロックのイベントを開催していた。常にその第二世代のロック·シーンを引っ張っていったのは森山達也だった。
同じ百万都市である北九州市には、これといったロック·シーンは形成されなかったように思える。
小倉に在った“イン&アウト”等を中心に後に日本のロックに多大な足跡を残すことになる大江慎也、 花田裕之、井上富雄、 池畑潤二 (2004年の時点で全員現役)のルースターズが北九州から生まれたというのはほとんど偶発的なことのように思える。
彼らは多分に福岡のロック、特にサンハウスに憧れていたと言えるし、実際ライヴのためによく福岡に出向いていた。それは、端的に言うと北九州が五市合併という事情から生まれ、都市そのものが広大な地域に広がっていたため、求心性に欠けていたのかもしれない。
かく言う福岡も実は中心を流れる那珂川を境に東が博多、西が福岡に分かれ、行政的には 一つの都市だが、 今でも心情的にはふたつに分かれている。 浦田の言葉を借りると、「福岡がフォークで、博多がロックたい」なのであった。
ビートなきものはロックにあらず
それでは博多のロックを特徴づけるものは何か。それは一言で言うと、進取の気性に富む、平たく言うと他と違ったことをして目立ちたがる個々のミュージシャンが、不思議とグループ志向を持っているということになるのかもしれない。
バンドこそが一番という伝統みたいなものが脈々とある。バンドのメンバー同士のあ·うんの呼吸、ある時は演奏での喧嘩に似たぶつかり合い。
バンドマン同士が、 よく異口同音に言う「仕掛けていく」 や博多弁の「かかってきやい」というニュアンスの攻守両面のチャレンジ精神、それと相反して一緒にグループとしてのグルーヴ感が出せたときの充足感、これこそが博多のロックの鍵だという気がする。
仲がいいのだが、常に他のバンドに対してだけじゃなく、メンバー間にもライバル意識があり、リーダー的な者がいても、それに従順することがなく、自己主張を怠らない。そういった雰囲気は程度の差はあっても、どのバンドにも共通していた。
もうひとつは先輩後輩の関係が著しいことだろう。もちろん社会や学校での上下関係に近く、一見ロック的でない状況がなきにしもあらずだが、これはいい意味で先輩格のミュージシャンが後輩に実際の演奏の上でも、レコードを聴くことにしても、いろいろ教えていた。
言い換えるとお節介。でもそのために先輩は常に勉強を怠らず、後輩もそれを鵜呑みにせず、また新たに他の音源を探してきて、先輩に返す。 そんなことが当たり前のことのように行われていた。
そうした関係を如実に反映したのが2004年2月に福岡限定で行われた浦田賢一、 梶浦雅裕 (モッズ)、川嶋一秀、 池畑潤二の4人のドラマーを一度に舞台の前面に並べ、その後ろにギター、ベース、キーボードからなるバンドを従えるという画期的な (!?) イヴェント、博多ビート·クラブだった。
モータウン、アトランティックのソウルからブリティッシュ·ビートはもちろんのこと、果てはレゲエからラテンまで、あらゆるリズムの面白さをこの4人が多様にかつ熱をこめて、叩き出した。予想を裏切る内容に詰めかけた観衆のアンコールも止まず、次回を期待する声も大きい。
博多のロックを音楽的な特徴で言うと、まずはビート! ビートなきものはロックにあらずといった暗黙の了解みたいなものが底流にある。
まずはローリング·ストーンズとヤードバーズ、さらに初期のフーがバンドのおおきな雛形になった。
そのため70年代中盤にアメリカにラモーンズ、ジョニー·サンダーズ、イギリスにセックス·ピストルズ、ダムド、クラッシュなどのいわゆるバンク·ロックが出てきた時も博多の連中は、自然に受け入れられ、 モッズ、ロッカーズ、ルースターズなどの第2世代のロックはまた新しい次元を切り開いていくことが出来たように思える。
2004年 寄稿文より