松本"KINKY"康、シーナを語る
シーナ著「YOU MAY DREAM」発売記念トーク・ライヴ
松本"KINKY"康 シーナを語る Talkin’‘Bout Sheena!
@JUKE JOINT 2009年12月26日 (聞き手=DJ OGATA)
【First Impression】
――12月16日に、シーナさんの自伝「YOU MAY DREAM」が発売されました。ジューク・レコードでも取り扱っていますが、松本さん、もうお読みになりましたか。
松本 発売日の前々日に店に届いて最初に私が買いました。店の仕事せんで夕方までに一気に読み上げました。内容は、半分は知っとうかなというところで、ちょっと知らない部分もあったりして新鮮な驚きもありました。私としては、幸いにもシーナと鮎川誠がたどってきたところの近くに居させてもらってたんで、感慨ひとしおというところです。
――シーナさんとの最初の出会いは、どんなシチュエーションでしたか。
松本 出会ったというほどのことではなく、見かけたという程度ですね。私が鮎川誠と出会ったのも「ぱわあはうす」だったというのは前にも話したけれど、その頃から鮎川誠が彼女と付き合ってるのは周りの人たちはみんな知っていることだった。私はまだ顔を見たことはなかったけどね。で、「ぱわあはうす」のスタッフにファッション・カメラマンみたいな仕事をする人がいたんだけど、ある日私が店に行くと、その人がある女性に話しかけていたんです。どうも「モデルのバイトをしないか」ということを言ってたみたい。私もその女性をモデルの人かなと思った。それがシーナだった。
――モデルというと、やっぱりスラっとした感じですか。
松本 スラっとしてて、シャキっとしてた。本人は年齢詐称しとって22、3とか言いよったらしいけど、今考えると17、8だったんだよね。
――最初は鮎川さんもよく知らなかったとありますね。
松本 マコちゃんもいいかげんな人だよね。

/ ロックで輝きつづけるシーナの流儀
【スサキ・スサキ・スサキ】
――松本さんは「ぱわあはうす」の帰りによくお二人の部屋へ寄ってらっしゃったということですが。
松本 今も須崎問屋街の近くに「エルボン」という喫茶店が40年近くあって、そこのまん前の「大西アパート」に住んでた。いまだに名前憶えとっちゃん。2階にトントントントンて上がって、突き当たりを右に入ったところの2Kぐらいの部屋。私はほとんど毎日お邪魔してた。週に1回ぐらいコーヒーを持ってってね。行くとシーナがお菓子を出してくれて「コーヒー今から入れるからね」とか言いながら、かいがいしくね。その横で私とマコちゃんは、「マジック・サムがくさ」「ギター・スリムはね」「ハーモニカはどげんして吹くとですか」とか盛り上がってた。
――シーナさんご自身もとても音楽が好きだったということですが。
松本 今回、この本を読んで一番びっくりしたのは、シーナが近所のレコード屋に入りびたっとって、ものすご音楽詳しかったということなんよね。鮎川誠と最初に出会ったときに話が合ったということ自体がね、17くらいの女の子が、信じられんよね。そこは意外やったんよ。私がシーナと知り合ったときは音楽を一緒に聞くということはよくあったし、もちろん音楽好きだというのは分かっとったけど…、本読むとチャートにこだわってたりしてて、ある意味マニアックやん。女の子でマニアックというのは、ね。
――あの時代はいなかったんですか。
松本 いないよね。でもシーナは具体的に「アニマルズのブーン・ブーンは、ジョン・リー・フッカーのとはね…」とか話もできる。
――ただ、皆さんの前ではそういうことは言われなかったんですね。
松本 私たちの話に割り込んできて「知っとるよ」とかいうのはしなかった。うんうんてうなずいて、「いいもんね」っていう感じ。受けにまわってね。細かく話すのはマコちゃんの役割だったから。根掘り葉掘りね。それに対してシーナは相槌を打ってあげるという感じかな。
――素敵なカップルですね。
松本 「ぱわあはうす」で山善かブローク・ダウン・エンジンかのライヴがあったとき、二人が客で来たんよ。狭い店で椅子も足りなくて、お客さんは床にベタっと座ってた。たまたまステージの横手だけ空いてた。それで、人がいっぱいの通り道もないようなところを、二人が手をつないでかき分けて行くったい。分かるかな。あの当時手をつないで行くなんていうのは、すごいカッコいいったい。「ごめんごめん」とかいいながら、自然な感じでね。それがすごい印象的だった。
――そんな二人の愛の巣に頻繁に。
松本 そうそう。私が24ぐらいの、「ぱわあはうす」を辞める直前のことなんだけど、店番してるときに具合が悪くなったことがあったんです。時間になっても家には帰れんで、とりあえずマコちゃんところで休ませてもらおうと思って寄せてもらった。マコちゃんたちはとくに大げさにするでもなく「まあお茶でも飲まんね」って普通に対応してくれた。気持ちが落ち着く薬をもらって、しばらくして少しよくなったから帰ることにした。二人が「タクシーで帰ったほうがいいよ」って言ってくれて、みんなで外に出た。何十メートルか向こうにタクシーが走ってる広い道があって、シーナが「私が車呼んでくる」ってタタタタって走っていったんです。その姿がね、カモシカのような脚で、颯爽とした、ムダのない動きのカッコよさというか。あれが今でも心に残ってます。
【 Rekollections of Wakamatsu 】
――松本さんはお二人の結婚式にも出席されたんですよね。
松本 サンハウスが終わりの頃かな、二人が結婚するという話になったんです。若戸大橋の近くにある神社で結婚式を挙げるということで、私はサンハウスの連中とお呼ばれしました。
――柴山さん金髪で行ったんですか。
松本 そうそう。で、その神社には披露宴のできるホールもあった。長いテーブル席が3列あってね。シーナの親戚の列と、それから確か町内の人たちの列、そしてマコちゃん側の久留米からのお客さんたちの列があった。私たちはマコちゃんサイドに座ってた。会場は学校の講堂みたいな造りで、ステージがあった。宴会が始まるとそのステージでいろんな人が歌ったり踊ったり、芸を披露するんよ。で、よく見るとステージに上がる階段にズラーっと行列ができていた。演じる人がずうっと並んでるの。もう、どんたく状態。どんたくの演舞台みたいに何チームもずっと待ってるのよ。おれたちあっけにとられてさ。
サンハウスなんか何の役にも立たん。エレキしかしきらんけんさ。みんなでアカペラで歌うとか気のきいたことしきらんたいね。てれーっと見よるだけ。あんな結婚式初めて。普通はご指名があるじゃない、誰々さんお願いしますとか。でも、あのときはみんなヴォランティア、志願なんよ。


――それが延々と。
松本 シーナのお父さんは若松五平太ばやしという太鼓の一座の世話人をされてて、もちろんそのご披露もあった。それから樽酒の鏡割りもあった。豪勢だよね。でも、とっておきがあったのよ、最後の最後にね。シーナとお父さんのラスト・ダンス。ホールの真ん中で社交ダンスを父と娘で踊った。「ラスト・ダンスは私に」の世界よ。さすがダンス・ホールのマネージャーとその娘。カッコよかった。本当に後にも先にもあんなの見たことない。
――カッコいいですねえ。
松本 お父さんの話で思い出した。昔、博多の東公園のところにキャバレーで「ナンバー・ワン」というのがあった。今、税務署があるところの前ぐらい。戦後すぐ出来た踊るところで、その後のディスコみたいなもの。私のおふくろは当時もう20代後半だったけど、おふくろの妹がティーン・エージャーで、「お姉ちゃん踊りに行こう」って行きよったって。社交ダンスとかジルバみたいなのを踊ってたらしい。そこに、若松から通ってくる、まるで「サタデー・ナイト・フィーバー」のジョン・トラボルタのような伝説の踊りの名人がいたんだって。そんな話をおふくろがするから、名前を聞いたらシーナと同じ名字。お父さんだった。びっくりした。
――松本さんはシーナさんのお父さんとお話しすることはあったんですか。
松本 うん。お父さんは豪快な感じの人だったね。私が若松のお家に遊びに行くと、お父さんとお母さんが座敷に座ってて「康ちゃん飲まんね」て、よくお酒を勧められた。「僕、飲めないんです」て答えると、次はマコちゃんに「飲まんね。男やろが飲まんね」って。でもマコちゃんも「飲みきらんです。コーヒーの方がいいです」。そしたらお母さんが「じゃああたしが飲もう」て、二人で飲みんしゃったいね。シーナはかいがいしく台所でおつまみを作ったりしてた。私たちのおるところにはあまり入ってこんで。それぐらいシーナは家では目立たなかったんよ。
――若松のお家に行くときの風景から、シーナ&ザ・ロケッツのある曲の歌詞ができたと、以前おっしゃっていましたね。
松本 「ワンナイト・スタンド」ね。折尾から若松に行く汽車に乗ってるときに、あの詞を思い浮かべた。若松線は何か寂しい感じがしてね。いや、あの頃の話をしだしたらキリがない、朝まで話してしまう。じゃ、そろそろロケッツの話に行こうか。
【 S&R with Juke Records 】
――シーナさんがロケッツで歌うことになって、松本さん最初にどう思われましたか。
松本 「ああ、それいいやん。あるやん」という感じやった。それまではあまりにもサンハウスのイメージが強かった。サンハウスはある種、決まったかたちがあるよね。マコちゃんはいろんな音楽を知っとうし、もちろんサンハウスのような感じが一番好きなんやろうけど、「まだあるよね」とはチラっと思いよった。で、シーナが歌い出すって聞いて「わあ、そりゃいいね」って思った。ポップさが加わってね。
――松本さんもロケッツのデビュー時のチラシをジューク・レコードで作られるなど、一生懸命応援されてますよね。
松本 それについては逆もまたありなんです。マコちゃんはジューク・レコードが出来たオープンの日、(1977年)5月25日に来てくれたしね。マコちゃんからいろいろ教えてもろうて、店をやれる自信ができた。
店をやる前にね、みんなのためのレコードを私が海外から取り寄せよったのよ。ブルースとかR&Bとかをアメリカとイギリスから取り寄せよるときに、マコちゃんたちにも一緒にかたって(参加して)もらって。そういう道を開いてくれた。
――もちろんこの「YOU MAY DREAM」という本でも、また鮎川さんが参加した「証言!日本のロック 70's」というトークショーが最近、本になって出たんですが、その中でもジューク・レコードの名前が出てきます。ほかにも鮎川さんはインタヴューで博多に関して語るときは、よくジューク・レコードの名前を出されています。そういう流れの中から、鮎川さんが好きだった音楽がジューク・レコードに行けばあるよ、というようにしてジュークへ行く人が増え、それが博多の街の音楽の特色につながっていると思うんですが。
松本 そうね。パイレーツもそうだし、ダムドもそうだし、ジョナサン・リッチマン、ジャムとかもそう。もちろんその前にラモーンズやパティ・スミスとかもあった。店を始めた頃はちょうどコステロとか出た頃だった。マコちゃんはそういうのをいち早くキャッチして私に「これがいいばい」ってわざわざ手紙でくれるわけ。それが取引先のイギリスの会社の商品リストに載っとるわけ。ああ、これのことやねって取り寄せて聴いてみたら、やっぱり面白いんよ。

――それがばんばん売れたんですか。
松本 ばんばん売れた。そうだ、思い出した。この前私が福岡市博物館でやった「博多の街とロック」というトーク・ライヴで、柴山さんがサンハウスの頃、福ビルのヤマハで勝手にレコードのシールド開けて試聴しよったとか、サンハウス名義で取り置きのコーナー作ってどっさりレコード置いとったとかいう話をしたよね。でも、柴山さんが「これいいよ」って言って取り寄せたレコードはやっぱり売れよったんよね。若手にも「お前これ買わんや」とか薦めてたしね。だからヤマハの人もシールド開けるのを黙認してたんよね。そうでないと訳分からん兄ちゃんたちが店の一角を占領してたら追い出すって。持ちつ持たれつだったのよ。顧問料みたいなもん。柴山さんの名誉のために言っとかないかん。あこぎなことばっかりしよったって思われんごとね。
だけんマコちゃんも、いいものを人に知らしめたいっていうのは絶対あった。それが私がよく言う、博多のミュージシャンのおせっかいなところなんよ。山部(善次郎)でもそうやろ、若手つかまえて「これ聴きやい」とかさ。
そういういい習慣があって、私がちょうど店を始めたから、もっとしていこうってなった。いくらヤマハでわがままさせてもらいよっても大企業やけんさ、そんなしょっちゅうはできんしね。私のところだったらもっとできる。好きな連中がしようけんさ。
【Is Sheena a girl-pop artist ? 】
――シーナさんが歌うことでポップさが加わった、という話がありました。ガール・グループやガール・シンガーのポップさが連想されるんですが、松本さんも「ガールズもの」が好きだと公言されていますよね。
松本 いや若い頃はね、そんなに好きじゃなかったよ。好きじゃないというか、その頃はブルースばっかり聴きよったし、あとザ・バンドとかさ、そういう男臭ぁいちゅうのが好きやった。
――でも、今好きですよね。
松本 だからその反動やね。70年代後半から反動が出た。レコード屋するまではブルースっぽいヤツ、Jガイルズ・バンドとか男っぽいのが好きで。女性っぽいのはあんまり聴いてはいけないというのがあったね。
――以前、松本さんとスタイリスティックスの話になって、ああいうのも聴かなかったって言ってありましたね。
松本 スタイリスティックスとかは軟弱だっていう空気があったね、仲間内では。今聴くとメチャクチャいいんよね。いや、実はこそっと聴きよったんやけどね。だんだん聴けるようになった。デルフォニックスとかさ。
こういうこともあった。74年の11月にロバート・ジュニア・ロックウッドが第1回のブルース・フェスティヴァルで来日したんよ。会場は東京でね。同じ時期に、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったポインター・シスターズも来てた。私、ポインター・シスターズは好きだったのよ。だから見ようと思ってね。日本で最初のブルース・フェスティヴァルというのがメインで、もちろんそれを見るために上京したんだけど、4分の1くらいの気持ちはポインター・シスターズにあったの。
でもそういうのはね、サンハウスの人たちには言えないわけ。「軟弱やねえ」とか言われそうな気がして。ロックウッド見に行く、エイシズ見に行くていう話だと、「おお、やるね」ってなるけど、ポインター・シスターズっていうと「何ねそれ」って言われそうで。それとね、その頃私はいろいろレコード買いよったけど、ドクター・ジョンが好きだというのも言いづらかったんよ。

――そうなんですか。ニュー・オリンズ系とかもダメなんですか。
松本 ちょっと微妙なんよ
――シカゴやないとダメなんですか。
松本 そうそうそう。何か知らんけど、ちょっとあった。ましてやポインター・シスターズとか言えんわけよ。
――そういうことの反動で70年代後半からガールズものを好きになったということですが、シーナさんをガール・シンガーとしてとらえたときの聴きどころを伺いたいと思います。
松本 いや、シーナはね、そこにはおらんタイプやね。ガール・グループていうのは作られたものであって、分かりやすく言えば今のパフュームがそう。やることを決めて、その通りしましょうというのがガール・グループ。フィル・スペクターが「こういうサウンドで、こういう歌い方して、こういう振り付けで踊って」とかやってたようにね。
シーナは違うもん、全然。ポップさを自由な中で表現する。歌い方は、コケティッシュなガールズものっぽいところもあるけれど、やっぱロックやね。それにそういうポップなものも持ち合わせているというところに面白さがある。
――ガールズのロックはいっぱいありますが、なかなかシーナさんのようにポップとハードを両方やってなおかつバランスがきちんと取れている人は少ないですよね。
松本 確かにロニー・スペクターがニューヨークのパンク世代の連中に女神のように崇められてたけど、やっぱりちょっと無理があるよね。無理があるし、自由に動く自由にするっていうのはロニー・スペクターですら難しい。そういうことをできるのがシーナ。シーナの動きは誰にも真似できんやない。決められた約束事でこうしましょう、っていうのじゃないったい。そこが全世界的に見ても珍しい。それはマコちゃんもそう。
ジョニー・ティロットソンの曲に「ポエトリー・イン・モーション」というのがある。動きに詩があるという歌なんだけど、あの二人は動いている中に詩情をたたえとるのよね。そこが二人の変わらないカッコよさ。出合いでポッとやる。「あまり決めたことは好かん」ってマコちゃんも言いよったけど、シーナもそう。多分、紅白歌合戦に出ても、あそこではシーナの良さは出らんと思う。
――決めごとが細々ある舞台では持ち味が出ない、と。
松本 「あんた好きにしい」って言われたとこで、好きにするっていうのがシーナを生き生きさせるところ。本当はロックはそうあるべきなんよ。

――自由であること。チャック・ベリーも映画で「ロックン・ロールの財産は自由だ」と言っています。さて、では会場内から質問を受け付けましょう。
【 Q&A 】
大坪 シーナさんは「ガールズ」とはちょっと違うと言われましたが、どちらかというとパティ・スミスのような雰囲気に近いということでしょうか。
松本 世代的にはパティ・スミスに近いけど、それとはまた違うんよね。逆になるけど、シーナはあくまでも基本はポップなんよ。だからむしろニューヨーク・ドールズとかね、「新しいロックン・ロールをするぜ」て言いながらも昔のものも持っとって、それにちゃんと敬意を表してやっているような感じに近いですね。
諸石 松本さんは「真空パック」の頃から何曲か詞を提供されていますが、シーナさんがヴォーカルを取った曲はシーナさんのキャラクターをイメージして詞を書かれたんでしょうか。
松本 「ボン・トン・ルーレ」はシーナが歌うんだろうなと思って書きました。ほかのは私がいろいろ書いた中からマコちゃんがピック・アップして曲をつけたものです。まあ、こういう感じもシーナに合うんじゃないかなって書いていたのは確かだけど、シーナが歌うことを想定して書こうとすると何もできん。それほど作詞家としてやってきたわけじゃないからね。
「ワンナイト・スタンド」はさっき言った国鉄若松線の感じを書いたら曲になってた。
「ムーンライト・ダンス」はシーナ向きかなと思うけど、あんまり意識はしてはいなかったですね。
――松本さんご自身のお気に入りはどれですか。
松本 お気に入りというほど書いてないけどね。「ボン・トン・ルーレ」はまあまあかなと思うね、フフフ。自分で言うのもなんやけど。でも、自分でいいかなと思って渡した歌詞が意外と採用されなかったりしてね、そういうもんですよ。
吉田 僕がロケッツを聴くときに思い出すのは、25年ぐらい前に松本さんがラジオで言ってあった「シーナはリズムで歌う」ていう言葉ですね。
松本 うん。もちろんリズムに乗って歌うんやけど、リズム感がいいとかそういう問題やないと思うったいね。日常にシーナはグルーヴ感を持ってる、音楽聴いてそれで楽しめるというリズム感を持ってる。例えばここの近所にもヒップ・ホップの教室があるけど、そういうとこで学べるもんやないやん。普段からカッコいい音楽にはカッコいいって感じて、自然に体が動くというのが大事。ほかのバンドにはちょこんと人形みたいにヴォーカルがおるような感じのもあるけど、シーナはそういう感じやないよね。とくに最近は凄いじゃん。喉の手術をしたって告白したけど、それを乗り越えて、今バンドはシーナが引っ張っていきよる。
【 Go Sheena Go Go 】
――今回、「YOU MAY DREAM」を読んで改めて感慨深く感じたのは、きちんと生活していらっしゃるなあということなんです。家族を愛して、きちんと子どもたちを育てていらっしゃる。当たり前のことなんでしょうけど、それをやりきってるところが素晴らしい。ロック・ミュージシャンには破滅的、破壊的、暴力的なイメージの人や、実際にそんな行動をする人もいますけど、シーナ&ザ・ロケッツに関してはない。
松本 破滅型でそのときだけ盛り上がればいいというのじゃないよね。もちろんライヴは今日しかない、今日が最後かもしれんってやってるけど。あの人たちにはせないかんことがあるわけよ。
――せないかんこと、とは。
松本 つまりロックをずっと続けていきたいていうのがあるわけよ。今結果的に30年経ったけど、1年目も2年目も、もっとしたいことがあるってやってきた。明日はもっと面白いライヴができるかもしれん。その連続だから破滅的なことをするヒマがない。
――そういえば鮎川さんはもっとロックの近くにいたいから、というのでタバコを止められたそうですね。
松本 そうそう。
――でも、長い間大量に吸ってらっしゃいましたよね。
松本 人の一生の3回分は吸ってる。私の3万倍は吸っとんしゃあ。だから逆に言うと、よう辞めんしゃったよね。
――鮎川さんは「キープ・ア・ロッキン」というフレーズをよく使っていて、これからもシーナ&ザ・ロケッツはロックし続けていくと思いますが、今後に関して松本さんの希望、求める展開はどのようなものでしょうか。
松本 一つはアルバムをばんばん出してほしいということね。オリジナルももちろんいいし、カヴァーのやつも、もう1回「ロンドン・セッション」のような、今度は「ハカタ・セッション」や「ワカマツ・セッション」とかでシリーズで出したりね。
もう一つは、若い子たちにもっと触れさせてほしいね。今年の9月に東京行ったとき、「レッド・シューズ」のイヴェントのライヴでロケッツが出たのを見たんよ。ほかにもいっぱいバンドが出てて、お客さんもいろんな人が来てた。年齢も10代、20代からいた。それでロケッツの前の若いバンドでお客さんが盛り上がっててね、それも今風の、今でしかないノリで。これでロケッツのときどういう状況になるやろうて思ったんやけど、なんてことはない。シーナが出てきてバーって行ったら、シーナ今絶好調やけん会場もバーっと盛り上がったんよ。若い子たちもびっくりして、楽しんでた。だからもっと若い子も触れられる状況を増やしてほしいね。2,000人ぐらい入る、大きいけど身近に見える会場とかでやって、若い子たちにロケッツのカッコよさに触れさせてほしい。私たちはもうだいたい見とうけんね、総替えできるぐらいの勢いでやっていいよね。

――まだまだできますよね。
松本 できる。今年の始め頃まではシーナの喉が心配だったけど、今はそれがないじゃない。すごい勢いだからね。
――松本さんも、いつかはアルバムをプロデュースしたいという思いはあるんじゃないですか。
松本 あるけどね。でも、音楽のプロデューサーというのは、今の日本では少し違う意味で言われてるんよ。それは映画で考えると分かりやすくて、映画は製作と監督は違うじゃない。製作というのはお金を用意して、条件を整えて、宣伝もこうしますって動く人。日本の音楽のプロデューサーというのはその辺があいまいになってる。みんが言うのは監督のことで、そのバンドやミュージシャンの作品を指揮する人だよね。でも本当はプロデューサーは売ることまで考えないかんわけ。だから売るところは全部レコード会社がやってくれてね、メンバーを福岡に送り込んでくれてさ、私が福岡のスタジオで録らしてもらえるならできるやろうけど、そんなこと許されんもん。
――例えば、逆に松本さんが東京に呼ばれて2ヵ月ぐらいは保障もしますってなればいいですね。
松本 それいいねえ。うん。
――ますます充実するシーナ&ザ・ロケッツですが、最後に、シーナさんに、送る言葉を。
松本 シーナさん、すごいよね。男どもを引き連れてさ「行こうぜ行こうぜ」っていう感じやん。なおさらそれを追求してほしいよね。私たちついて行きますから。
